人間の尊厳って、ご利用者様にだけ?

こんにちは、せなパパです😁

私は、実はハードロックやヘビーメタルが好きで、以前は洋楽を主に聴いていました。

Yngwie MalmsteenやJake.E.Lee、Paul GilbertNuno Bettencourt、Chris Impellitteri、Vinnie Moore、Jason BeckerMarty Friedman、Tony MacAlpine、Michael Angeloなどの速弾き系のギタリストが弾く曲ばかり聴いていました。

インストゥルメンタルという歌のない曲も大好きでした。

しかし、その後、少し音楽から離れてしまい、今どんなギタリストやバンドが活躍していて、どんな曲が出ているのか分からなくなっていました。

最近、またハードロックやヘビーメタルを聴き始めたのですが、日本ではガールズバンドが頑張っていますね!

LOVUBITES、MEMOPHILA、Aldious、BAND-MAIDといったバンドがお気に入りでよく聴いているのですが、男性バンドや洋楽の方はよく知りません。

お勧めがあったら是非教えてほしいです😁

いつか、エレキギターも買って弾きたいななんて思ってます!

 

さて、本題なのですが、福祉の職場ではご利用者様には、受容や非審判的態度などということで人権や尊厳を重んじているとは思いますが、職員間ではどうでしょうか?

仕事を覚えるのがゆっくりな職員や自分が思うように動いてくれない職員に対して、必要以上に厳しく辛くあたる職員や上司がいませんか?

職員にだって人権や尊厳は当然あります!

福祉の職場だからこそ、職員の人権や尊厳にも配慮した指導をしてもらいたいものだと思っています。

私もそういった理不尽ともいえるような扱いを受けたことがあります。

アセスメントでは結果だけではなく、経過も見ることが大事だと習うのに、結果だけ見て私だけが全て悪いように決めつけられたりとか、本当は自分のせいではないのだけれども、他の職員のせいにしたらその職員に悪いという思いから何も言えず結局自分のせいになってしまったとか、他の職員の前で罵られたりとか、年下のくせにタメ口だとか(ちょっと、リアル過ぎ?)。

もっと、話しやすい場所で話をしてほしいと思ったこともあります。

いっそのこと、キレてしまおうかと思うこともありましたが、喧嘩してしまったら働きづらくなるとか、辞めないといけなくなるとか、自分が我慢すれば良いなどという思いから、何も言えなくなってしまうのです。

ですが、私も一度だけキレてしまったことがあります(泣)

上に述べたようなことを、思わず言い返しました。

幸い(?)、言い返したことで、その職員や上司と関係が悪化することはなかったのですが、何も改善もしませんでした。

今思い返すと、私は職場にご利用者様に対するのと同じように職員にも同じように接してほしいと望んだわけですが、そういう私もその職員や上司にご利用者様に対するのと同じように接していなかったことに気付かされました。

ご利用者様から例え理不尽なことを言われても、福祉職の人はその背景に何があるのかを考えて受容することに努めることでしょう(最近は介護ハラスメントなどという言葉もありますが)。

私は、私に対して理不尽ともいえる扱いをしたその職員や上司に対して、その背景などを考えるということをした訳ではなかったのです。

言ってみれば、売られた喧嘩を買った形です。

それからは、どんな理不尽と思われることを言われても、言った相手をご利用者様だと思うように努めました。

でも、これは簡単なことではありません。

なにせ、ご利用者様ではないのですから。

例えご利用者様であったとしても、最近では介護ハラスメントといってご利用者様に利用を止めてもらうケースも出てきているみたいです。

なかなか教科書どおりにはいかないことも多いということでしょうか。

あまり好きな言葉ではありませんが、理想と現実の違いとでもいうのでしょうか?

とにかく、私の気持ちとしては、相手の立場になって自分がされたら言われたらどう思うかを考えてほしいということですよね。

それが出来ないと、偏見もなくならないと思います。

そして、それが権利擁護であり、人権尊重、人間の尊厳の尊重の根源だと思います。

福祉も学問として高度化してきているとは思いますが、基本に立ち返って小学校で習うような「道徳」を思い返してほしいと願います。

今回は以上です!

 

「できること」を「していること」にってどういうこと?

こんにちは!かなりお久しぶりのセナパパです。

実は家族が一匹増えました。

その子は、ミニチュアダックスフンドのルナです。

ゴールドの毛並みのやんちゃな女の子で、もう大変です。

毛を掻き分けたら「666」と書いてあるんじゃないかなんて(ホラー映画「オーメン」の見過ぎ?)。

他の三匹の時もそうでしたが、来てしばらくの間は、もう少し過酷な日々が続きそうです・・・(泣)

出来たら写真もアップしますね!

それから、もう一つ大変なことが。

部屋が愛犬たちで汚れるので、お掃除ロボットのルンバ(ルミィちゃん)に掃除してもらってたら、一匹の誰かが床にうんこしたんですね。

そしたら、ルミィちゃんがうんこを引きずって部屋中の床を移動して、もう床全体がうんこまみれになってしまいました(泣)。

見た時には思わず大声で悲鳴を上げてしまいました。

その後の床の掃除とルミィちゃんをきれいにするのがもう大変!

そんなルナですが、年の近いセナといつも仲良く遊んでます!😁

 

さて、本題ですが、よく介護の現場では介護職の方がご利用者様に対して「これはできるんだから、やってくださいね」みたいなことをおっしゃっているのを耳にすることがよくある気がします。

(実際には、看護職やリハ職が限界を見定めて、例えば歩行ができるという場合、歩行していただいて、限界かなと思ったら車いすに替えるといった具合にしているとは思うのですが。)

自立支援ということで、もっともらしいことではあるんですが、できるからといってあまり安易にこれを強要するのはどうなのかな?って思ったりします。

もちろん、ご利用者様がそうしたいと望んでいるのなら良いと思います。

「できないこと」を「できること」にすることは大事なのですが、これって結構大変なんですよね。

ですから、福祉の業界では「できること」を「していること」にすることがとっても重要になってくると思います。

自立支援なのだからということで、介護職はそう教え込まれているんですよね。

しかし、人って常に100%の力を出し切って生活している訳ではありませんよね。

せいぜい50~60%くらいなんじゃないかな?って思ったりします。

自動車だってそうですよね。

だいたい自動車の制限速度は時速100kmまでだと思うのですが、能力的にはそれ以上のスピードが出るように設計されています。

自動車によっては時速180kmくらいまで出せるんじゃないでしょうか?

実際は分かりませんが、スピードメーターにはそのくらいまであったりしますよね。

時速100kmで走るためには、それだけの能力が必要なんですね。

リハビリとかで、できたからといってご利用者様に常にそれを求めるのはかなり酷なことだと思います。

能力的にもっとできるようになってから、それをやってもらうのが良いと思います。

特にご利用者様にそれをする意欲がない場合、いつか事故につながるリスクが非常に高いと思います。

ですので、やっぱり必要なのは、意欲を高める言葉かけなんだと思いますね。

ケアプランやサービス等利用計画もそういった意欲を高められる具体的な目標の設定が大事だと思います。

例えば、本人が望んでいる場合、「温泉に行けるようになる」とか「旅行に行けるようになる」だとか、「お墓参りできるようになる」とかでも良いと思います。

「心が動けば体が動く」です。

これは、介護支援専門員の実務者研修の時に作業療法士でケアマネージャーの講師の方から教えていただいた言葉です。

希望と意欲の持てる目標はストレングス(ストレングスについては以前にお話したと思います)になります。

以前にもお話しましたが、自立を妨げているのは依存(頼る)ではなく、依存(頼る)するものが全くないか、極端に限られていることです。

人は一人では生きていけないのですから、お互いに助け合って生きていくものですからね。

一人で何もかもしなくてはならないのは「自立」ではなくむしろ「孤立」です。

ですから、自立支援とは、依存できる(頼れる)ものを増やしてあげて、どれを選んでもらうか(自己決定、自己選択)をできるように支援することです。

依存できる(頼れる)ものとは、目標(自己実現)を達成するための「手段」ともいえます。

ストレングスもその「手段」になります。

障害を持つ方や高齢者の方はいろんなことをあきらめてしまっていたりします。

あきらめずに希望を持てる、意欲をもっていただける言葉かけを含めた支援を大事にしていきたいですね。

 

今までの「自立ってなんだろう?」のまとめ

お久しぶりの”せなパパ”です。

ちょっと、「自立」について今まで考えてきた中で「自立」とはなにかを整理してみたいと思います。

多くの人は「自立」とは、「人に頼らず、自分で何でもできるようになること」と考えがちです。

「人に頼る」ことは「依存」と言えますから、「自立」の反対は「依存」であると考えがちなんですね。

しかし、今まで「自立」について考えてきましたが、結論から言うと、「自立」の反対は「依存」ではありません。

多くの人は「自立」の反対は「依存」だと考えがちですが、実は違うということを考えてきましたね。

逆に、「依存」の対象がない、または、「依存」の対象が極端に制限されていることが「自立」を妨げている要因であるということです

そして、「依存」の対象を多く持っていて、それを自分で選ぶ(自己選択)ことができることが「自立」するということだと考えてきました。

例えば、高層ビルの高い階にいて、大きな地震があったとします。

すぐに避難しなくてはなりませんが、エレベーターは動かなくなっています。

健康な人は階段を利用(階段に頼る=階段に依存する)したり、窓からロープを垂らしてそのロープをつたって下に降りたりする(ロープを利用する=ロープに頼る、ロープに依存する)ことができるでしょう。

また、どの方法を選ぶかを決めること(自己選択)ができます。

しかし、体の自由が効かない人は、他の人に担いでもらったりして逃げるしかないのです(依存の対象が制限されている)。

また、母親が過剰に子どもに干渉(過保護)する場合、母親が子どもの身の回りのことなどをすべて決めてしまうので、その子どもは自分で選ぶこと(自己選択)ができません。

このように、「依存」の対象が極端に制限され、自分で選ぶこと(自己選択)ができないことが「自立」を妨げているのです。

では、「アルコール依存症」のような場合はどうでしょうか?

アルコールに依存するから「自立」できないのでは?と考えがちです。

だから、やっぱり「自立」の反対は「依存」では?という具合です。

この場合、アルコール依存症の人は、その生活のほとんどが「お酒を飲むこと」に向いてしまうんですね。

すべてが「お酒中心」の生活になってしまうわけです。

本来、生活にはいろんな要素があり、した方が良いこと、しなくてはいけないこともたくさんありますし、また、楽しみもたくさんあって良いはずです。

しかし、アルコール依存症の人は、それが全部「お酒」に向いてしまいます。

アルコールに支配されて、「お酒を飲むこと」が生活の大部分を占めてしまうことになるのです。

私たちの生活は、仕事、食べ物、趣味、お気に入りのお店など、親友や恋人、配偶者や家族、パートナーなど様々なものに依存して成り立っています。

しかし、アルコール依存症の人は、それらより「お酒を飲むこと」が優先してしまうんですね。

これでは、依存の対象がアルコールに限定されてしまって「自己選択」はできませんよね。

このように、「自立」の反対は「依存」ではなく、その「依存」の対象がないか、極端に制限されて自己選択できないことにあるという、いくつか例をあげてみました。

人は一人では生きていけないんです。

人は依存しあって生きていくものだと言えるでしょう。

そのためにお店や、いろんなサービスもあるのですから。

もっと言えば、一人では電車に乗れないという芸能人の方は結構いらっしゃると聞きます。

では、それらの芸能人の方々は「自立」できていないのでしょうか?

必ずしもそうではありませんよね。

それでも、やっぱり「人に頼らず、自分で何でもできるようになること」が「自立」ではないか、「自立支援」ってそうでしょう?と思われる方も多いかと思います。

「自分でできること」が多いと確かに依存の対象に対する選択肢が大幅に増えるんですよね。

そういう意味では、「自分でできること」が増えることはとても有効で重要です。

ですから、そういった支援もとても大事です。

しかし、それは「自立」するための「手段」であって、「自立」そのものではないといえるでしょう。

「自分でできることは自分でしましょう」というのは「自立支援」の一面に過ぎないといえると思います。

QOLの向上にADLの向上はとても有効で重要であるけども、あくまでも「自立」はQOLの向上を目的とするものであって、ADLの向上を目的とするものではないと言い換えることができると思います。

ここで言うADLとは、IADLなども含むものと考えてください。

※ADLとは、「日常生活動作」といって、一般的に「起居移動」「食事」「排泄」「更衣(着替え)」「整容」「入浴」の6動作のことです。

つまり、「自立支援」とは、ご利用者様に利用できる(依存できる)もの(サービスや制度など)を情報提供(ない場合は、新たに創るか創るように行政などに働きかけるなどする)し(選択肢を増やしてあげる)、ご利用者様ご自身がどのような生活を望んでいて、その実現のためにどのようなもの(サービスや制度など)を利用するのかを、ご自身で選ぶこと(自己決定)ができるように支援することといえるでしょう。

QOLとは、「生活の質」「人生の質」などと訳し、自己実現や幸福度を意味します。

障害を持つ方にとって、環境に働きかけられ、社会や生活環境において障害(社会的障壁)となっているものが取り除かれ、依存できる対象が増えることでQOLが高まることがノーマライゼーションと言えるでしょうか(ちょっと強引か?)。

一方、リハビリテーションは、全人間的復権なども意味し、時に環境に働きかけることもありますが、一般的には人に働きかけて、人を社会や生活環境に適応させるべくADLの向上を目指すものと言えるでしょう。

ノーマライゼーションリハビリテーションも両方大事です。

それでは、今回の最後に「自立」に関係する「名言」をいくつか上げておきたいと思います。

これらは、以前に紹介したことがあるものです。

 

「『できること』が増えるより、『楽しめること』が増えるのが、良い人生」 

                            斎藤茂太

 

 

「生きるというのは人に何かをしてもらうこと。

 生きていくということはそれを返していくこと。」 金八先生

 

 

「大人になるということは『誰にも頼らず自分の力だけで生きていける』ことなのでしょうか?

 『私の人生にあなたが必要なんです』というのは、素晴らしいことじゃないでしょうか。」 ツイッターから

 

 

「酒だけが友達だと思っていた。

 唯一の友達『酒』とお別れしたら、不思議と出会いが増えた。

 人間の友達が増えた。」 ツイッターから

 

 

 

「療育」ってなんなのだろう?

 こんにちは、最近ご無沙汰気味のせなパパです。

最近、「療育」って言葉をよく聞くようになってきましたが、その「療育」の意味をきちんと理解している方は意外と少ないのでないかと思いまして、今回は「療育」に関してお話ししていきたいと思います。

 

「療育」とは、「障害を抱える子どもが社会的に自立した生活を送れるようにするための医療や保育といった支援」のことで、現在では「発達支援」とほぼ同義語として使われているようです。

この「療育」という言葉は、もともと身体障害を抱える子どもへの治療と教育を合わせたアプローチを表す用語として使われていたようですが、今では障害のある子どもの発達を支援する働きかけの総称として使われることが多くなっているという経緯があります。

こういったことから、「療育」は、身体障害や発達障害、知的障害など、様々な障害の特徴や子どもたちの特性に応じた、幅広い支援を実施することが特徴になっています。

 

また、「障害者手帳」には、「身体障害者手帳」と「精神障害者保健福祉手帳」、「療育手帳」があるのをご存知の方も多いとおもうのですが、この「療育手帳」は、主に「知的障害」を抱えていることを証明する障害者手帳で、子どもの頃に取得する人が多いといえます。

発達障害」を抱えていている人の中には、「知的障害」も抱えているという人も割と多くいますので、「療育手帳」を持っている人が多いといえます。

これらのことから、「療育」は「知的障害」や「発達障害」を対象にしているというイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。

実際に、「放課後等デイサービス」や「児童発達支援事業所(センター)」などを利用しているのは、「発達障害」や「知的障害」を抱えた子どもである割合が非常に高くなっている現状があると思います。

 

では、私なりに「療育」とはどういった支援を行うべきなのかを考えてみます。

「療育」の効果を見てみますと、「日常生活に必要な能力が身につく」「社会性やコミュニケーション能力が身につく」「自己肯定感(自分に自信を持つこと)が高まる」といったものがあります。

逆に言うと、これらの効果を狙った支援を行うことが「療育」ということになるのかもしれません。

また、「療育」とは、障害を抱えた子どもが「社会的」に自立した生活を送るための支援ですから、障害を抱えた子どもたちが、社会に出ていきやすいように、社会のルールやマナーが守れるようにしなければなりません。

現在、障がい者や障がい児には「合理的配慮」をしなければならいないことになっていますが、これは社会のルールやマナーを守れるような「合理的配慮」ということになると思います。

言い換えれば、社会のルールやマナーを守らなくても良いような「合理的配慮」ではないということです。

たとえば、食事のときは、むやみに離席することはマナー違反ですが、ADHDを抱えた子どもなどは、周囲の視覚的・聴覚的刺激に反応して、食事に集中できずに、つい離席してしまうということがあります。

そのために、合理的配慮として、食事中に聴覚的刺激を減らすためにイヤーマフをつけたり、視覚的刺激を減らすためにパーティションを立てたりすることがあります。

社会的ルールやマナーが守れるようにするためにはどうすれば良いでしょうか。

たとえば、知的障害や自閉症スペクトラム、選択性緘黙(かんもく)症(場面緘黙)などで、相手の言葉がうまく理解できない、もしくは、相手に理解できるように言葉でうまく伝えられない、そもそも言葉が出ないといったような、コミュニケーションをうまく取れない子どもがショッピングモールなどにお出かけしたとします。

ですが、その行き先で帰りたくなったけど、保護者などの引率者にそのことをうまく伝えられなくて、居ても立ってもいられなくなり、その場を通りかかった子どもを突き飛ばして転ばせてしまいました。

そうなると、保護者などの引率者は、大変なことをしてしまったと、突き飛ばされて転んでしまった子どもやその保護者に謝って、すぐに、お出かけしていたショッピングモールなどから帰るということもあるでしょう。

そうすると、そのコミュニケーションをうまく取れない子どもは、「お出かけしても帰りたくなった時は、誰かを突き飛ばせば帰れる」と学習してしまうのです。

こういった誤った方法を学習してしまうことを「誤学習」といいます。

そして、コミュニケーションをうまく取れない子どもが、その場を通りかかった子どもを突き飛ばした時、そのコミュニケーションをうまく取れない子どもは、「帰りたい」という気持ちを他の人に伝える方法を学習していなかったのではないかと思われます。

そのことを「未学習」といいます。

人を突き飛ばしたりする他害行為は、社会におけるルール違反です。

その「誤学習」を修正して学習させること、「未学習」のことを学習させることが「療育」だと思います。

ここでは、「帰りたい」という気持ちを「絵カード」で示すとか、何かサインを決めておくといった具合です。

「誤学習」を修正する方法として、認知行動療法的なアプローチやSST(ソーシャル・スキル・トレーニング:社会生活技能訓練)が有効かと考えられます。

認知行動療法」とは、かんたんに言うと、「同じ人が、同じ所で、同じことをすれば、同じ結果になる」が「同じ人が、同じ所で、違うことをすれば、違う結果になる」というものです。

たとえば、「ギャンブル依存症の人が、パチンコ屋のそばで、パチンコ屋の前を通れば、パチンコをしたくなってパチンコ屋に入ってしまう」のであれば、「ギャンブル依存症の人が、パチンコ屋のそばで、パチンコ屋の前を通るのを回避すれば、パチンコをしたい気持ちが抑えられてパチンコ屋に入らないですむ」といった感じです。

この対処法(コーピング)は、人それぞれ違うこともありますので、その人に合った対処法(コーピング)を考えることが大事になります。

SST」も、「認知行動療法」と同じようなアプローチになるのですが、かんたんに言うと、ある困り感のある場面において、ロールプレイ(役割演技)を用いて、より適切な行動を複数の人でブレインストーミング的手法によって考えていくというものです。

「ロールプレイ」とは、かんたんに言うと、参加者それぞれが、それぞれの役割を持ってある場面を演じることで、その場面を具体化することです。

ブレインストーミング」とは、かんたんに言うと、参加者それぞれが、否定することなく自由にアイデアを提供し合い、最も良い方法を模索することです。

ここでは、繰り返しになりますが、ある場面の「ロールプレイ」を見て、「こうすればもっと良いのではないか、それとも、ああすればもっと良くなるのではないか」などと、それぞれの意見を否定することなく出し合い整理し、まとめていくことになります。

これが「療育」の全てではありませんが、このようなことにより、障害を抱えた子どもが、社会性を高めていけるように訓練することと言えると思います。

コミュニケーションなどの障害により頭を自分の手で叩いたり、壁や床に叩きつけるような自傷行為や人を叩いたり傷つけたり、物を投げたり壊したりする自傷他害のあることを「強度行動障害」と言います。

この「強度行動障害」は、コミュニケーション障害などの何か他の中核症状があって発生する周辺症状であり、二次的障害になります。

または、そこまでなくても、何か周囲が困るような「問題行動」を起こすこと、この「問題行動」を今では、一番困っているのは本人だということから「行為障害」と呼びます。

または、何かしたくても、その思いが伝えられずに、思うことができずに「どうせ、何かしたくても思うようにならない、ダメだ」というようなことを学習してしまうことを「学習性無力感」などと言います。

このように、無気力になり引きこもるようなことも、あってはならないことだと思います。

これら「強度行動障害」や「行為障害」「学習性無力感」などは、周囲も困りますが、一番困っているのは本人であるという認識をもって、そうならないようにすることが「療育」だと思います。

私の考えでは、たとえば、学校の宿題に取り組むことを習慣づけようと指導すること自体は「療育」とはいえませんが、なんらかの障害により、学校の宿題に取り組もうとすることで、何か不適切な行動が生じることを改善しようとすることは「療育」になるのだと思います。

宿題に取り組む習慣をつけることと「障害」は関係ありませんものね。

また、学校での勉強を、社会的に必要なこと、社会生活を営むのに必要なことととらえれば、勉強を教えること自体は「療育」ではありませんが、「知的障害」や「学習障害(LD)」などの障害を抱えて勉強することが困難な子どもに、その子どもの特性に合った方法で勉強を教えることは「療育」に入るのだと思います。

それから、「愛着障害」を抱えた子どもと愛着を形成することも、社会性を獲得するという意味で「療育」と言えるでしょう。

それから、障がい児にとって、「依存」の対象を増やすことです。

私は、障がい者や障がい児の自立を拒んでいるのは、「依存」の対象が少ないことだと思っています。

「依存する」ということは「利用する」ということでもあると思います。

ですから、環境的に、障がい児が「放課後等デイサービス」や「児童発達支援事業所」、「保育所等訪問支援」(場合によっては「ショートステイ」や「訪問介護」や「訪問看護」)などにつながることも「依存」の対象を増やすということで、間接的に「療育」だと思いますし、「自立課題」などで、できることを増やすことも「療育」だと考えています。

「自立課題」とは、「自閉症スペクトラム」などを抱えた子どもたちの「構造化」を活用した活動であり訓練の方法です。

この「自立課題」や「構造化」は、またの機会にお話ししたいと思います。

ところで、少年院に入院している少年たちのなかには、知的障害や発達障害などの「障害」を抱えた者たちも多いといいます。

性犯罪や麻薬常習に手を染めた者なども多く、社会的に許されない罪だということを理解できていなかったのでしょう。

残念ながら、それらの少年たちは、適切な「療育」を受けることができなかったと言えるのかもしれません。

刑務所に入所している犯罪者のなかにも、やはり「障害」を抱えた人が多いといいます。

「障害」が軽くて、社会福祉の対象から外れた境界(ボーダー)の人たちなのかもしれませんが、やはり適切な「療育」を受けることができなかったのかもしれません。

 

「愛着」に関することで、話はそれるかもしれませんが、今から800年ほど昔、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世が50人の乳児を集めて、ある実験を行ったそうです。

その実験とは、「言葉を一切教わらなかった乳児は、どんな言葉を話すようになるのか?」を確かめるものでした。

そうして、50人の乳児は隔離され、「乳児の目を見てはいけない」「乳児に笑いかけてはいけない」「乳児に話しかけてはいけない」「乳児にミルクを与えなさい」「乳児をお風呂に入れなさい」「乳児の排泄の処理をしなさい」という条件が指示されたもとで、乳母たちにより実験が始められました。

乳児が生きるための世話はするものの、愛情は示さず、スキンシップは一切取らないというものです。

実験の結果、この50人の乳児は1歳の誕生日を迎える前に、全員死んでしまいました。

 

20世紀になってからも、アメリカの心理学者ルネ・スピッツが、戦争で孤児になった乳児55人を対象にして、スキンシップを一切行わない実験をしました。

結果は、55人中27人が2年以内に死亡し、17人が成人を迎える前に死亡、残った11人は生き残りはしたものの、その多くに知的障害や情緒障害が見られたということでした。

 

今では考えられない、胸が痛くなるような残酷な実験ですね。

これらの実験からも分かるように、人はスキンシップや愛情がないと生きるのに大きな支障が生じるのです。

もっと言えば、「人は愛されなければ死んでしまう」のです。

逆を言えば、「今、私たちが生きているのは、誰かから愛されていたから」ということです。

愛着の形成というのは、子どもが母親などの養育者に「依存」する(甘える)ことから始まります。

そして、母親などの養育者は、「子どもが元気に育つように」などと「期待」するでしょう。

「期待」することも「頼る」ことの一つと考えれば、「依存」と言えます。

さらに、子どもは、母親の「期待」に応えようとすることと思います。

これが「適切な依存関係」だと思います。

この「適切な依存関係」、つまり「適切な『頼り頼られ』の関係」を築くことが社会的に自立することだと私は考えています。

つまり、「愛着」の形成こそが、「社会性」の獲得の第一歩だと思います。

いろいろと言いましたが、どうしたら、子どもたちが「障害」を抱えていても、「適切な『頼り頼られ』の関係」を築くことができるのかを考え、実践し、「愛着」を形成していくことが「療育」なのではないでしょうか。

 

最後に、もし、孤独を感じ、寂しい思いをして悩んでいる人がいたら、伝えてあげてください。

また、もし、あなたが、そうであるのならば覚えておいてください。

あなたは一人ではありません。

先に言いましたが、もう一度言います。

「今、私たちが生きているのは、誰かから愛されていたから」であり、「今も誰かから愛されているから」なのです。

「今、あなたが生きているのも、誰かから愛されていたから」であり、「今も誰かから愛されているから」なのです。

 

今回はここまでにします。

次回もまたよろしくお願いします。

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今日の“せなくん” 女の子みたいで可愛いでしょ?❤

 

「私はあなたが好きです」の「あなたが」は主語なの?(?_?)

 こんにちは、せなパパです。

今回は、いつもとは少し違ったマニアックな感じでお話ししたいと思います。

えっ?いつもマニアック?(¯―¯٥)。

 

謡曲などのラブソングの歌詞に「好き」とか「愛してる」などの言葉が多く出てきていると思います。

皆さんが日常よく使うかどうかは分かりませんが、皆さんは、「私はあなたが好きです」と言った場合の「あなたが」は主語なのかな?みたいなこと、考えたことはありませんか?

ないですかね‥‥‥(¯―¯٥)。

 

では!気を取り直して。

「私はあなたが好きです」と言うとき、主語は「私は」になりますよね。

「あなたが」は目的語になるのですが、目的語とは「~を」とか「~に」とかの格助詞がつくはずなのですが、ここでは「~が」という格助詞になっています。

一般的に「~が」や「~は」という格助詞がつくと主語になりますよね。

では、「好き」は動詞なのでしょうか?

正確には「好き」は形容動詞といって、意味合い的には形容詞と同じ性質を持っているようです。

形容詞は「状態」を表しますから、ここでは「あなたを」好きな「状態」であるということを示しています。

そして、目的語の「あなたを」を強調して「あなたが」になっていると考えられます。

ですが、「私はあなたを好きです」とは言いませんよね。

ナンカ変だと思いませんか?

一方、「私はあなたを愛しています」とも言いますよね。

この場合は、明確に「あなたを」は、「~を」という格助詞を持った目的語です。

そして、「私は」が「~は」という格助詞を持った主語で、「愛しています」が動詞です。

ですが、どんなに「あなたを」を強調しようとしても、「私はあなたが愛しています」とは言いません。

ちなみに、英語には形容動詞というものはありません。

「私はあなたが好きです」は「I like you」ですし、「私はあなたを愛しています」は「I love you」で、「like」も「love」も同じ動詞です。

ですから、これは日本独自のものなんでしょうね。

 

ここからは、私の考えです。

「私はあなたが好きです」と言った場合の「あなた」は、「あなたが」となっていますから、「あなた」が主語的に働いて「私があなたのことを好きになっている状態」に対しての主体になっていると思われます。

「あなた」が主語的な役割を持って、「私」に作用して、または影響して、「好きな状態」にさせたということです。

ですから、「あなた」は私に「好かれている」という受動的な意味合いも持つと思われます。

これに対して「私はあなたを愛しています」と言った場合は、「あなた」が「私」に作用した、または影響したかどうかには関わらず、一方的に(好意的に?)「愛しています」ということになると思います。

ということは、「あなた」のことが「嫌い」でも「愛する」ことはできるということになるのではないかと思います。

逆に、「あなた」のことが「好き」でも「憎む」ことができるのではないかと‥‥‥。

 

こうして考えてみると、「好き」とか「嫌い」という感情よりも「愛する」とか「憎む」という行為の方が、より主体的で強いように思われます。

先ほど、形容動詞というのは日本独自のものということをお話ししましたが、この「好き」「嫌い」よりも「愛する」「憎む」の方が主体的で強いという点は一致しているように思われます。

「好き」=「愛してる」ではない場合もあり得るということになりますが、「愛する」行為の方が「好き」という感情より主体的で強いのであれば、「愛する」ことにより「好き」になれることはあり得るかもしれませんね。

キリスト教の教えなどで「自分を愛するように隣人を愛せよ」や「敵を愛せ」というのもこういうことなんでしょうかね。

ちなみに、敵でない人を愛することを「慈愛」、敵をも愛することを「博愛」と言うと誰かが言ってましたが、本当なのでしょうか(。・_・。)。

 

こうして考えてみると、「好き」とか「嫌い」とかは、それぞれが作用し、影響しあっている意味で、より社会的な印象を受けます。

これに対して「愛する」とか「憎む」というのは、より個人的で一人の世界というか、そういった印象です。

ということは、「好き」になれるかどうかは、より周囲の状況に影響されるということにもなりますし、「人的環境」も含めて「環境」に働きかけることによって改善できるということにもなるかもしれません。

一方、「愛する」ということは、より個人の素質や裁量、力量に委ねられることになると思います。

ですから、たとえば、職員の誰かが職場を好きになれるかどうかは、周囲の「人的環境」を含む「環境」への働きかけ次第で変えられるけれども、職場や仕事を愛せるかどうかはその人次第ということになるかもしれません。

先ほどキリスト教を持ち出しましたけれども、宗教というのはこうした「愛する」といいうような個人に任されることに影響を与えるものなのでしょうね。

そして、各個人個人が変わっていけば、それが広がりを見せて、やがて社会も変わっていくということになるのだろうと思います。

また、「好き」とか「嫌い」とかは「社会モデル」的な概念で、「愛する」とか「憎む」とかは「医学モデル」的な概念とでも言えるでしょうか。(う、かなり強引すぎるか?)

私は、常々、「自立」とは「適切な社会との関わりを持つこと」であると考えていて、「引きこもり」というのが最悪な状態だと思っています。

「自立」を促すには、社会に出ることを「好き」にしてあげることが大事だと思っていますが、「愛する」必要まではないんじゃないかと(もちろん、それに越したことはないかもしれませんが)。

私もインドア派なので、外出せずに家にこもるのは嫌いではないですし‥‥‥(T_T)。

ですから、社会に出ることをためらっている人には、社会の素晴らしさを伝えてあげて(情報提供を含む)(それを伝える人が「人的環境」です)、社会に疲れてうんざりしてしまった人には、社会に働きかけて、また社会に出ることに魅力を感じてもらえるように環境(もちろん「人的環境」も含みます)を変えていくことが大事だと思います。

特に、「障害」を理由に「引きこもる」ことがないようにしなければならないと感じています。

福祉サービスもできるだけ、「入所」よりも「通所」と「訪問」のサービスを併用して利用するのがベターではないかと思います(もちろん、可能な限りですが)。

「長期入所」や「長期入院」は、「ホスピタリズム」(「ホスピタリゼーション」ということもある)といって、どうしても小さな社会になってしまい、広い社会とのつながりが薄くなりがちで、「社会性」や「意欲」といったものが減退していく傾向にあるようです。

また、幼児などの児童では、ある意味、いたしかたない理由により、感情や情緒の表現が抑えられ、無関心、無感動、無表情といった状態になったり、コミュニケーション能力などの発達もかなり遅れるという報告もあり、情緒的な障害や身体的な発育の遅れもみられる場合が多いといいます。

ちなみに「ホスピタリズム」と似た言葉に「ホスピタリティー」というのがありますが、意味は全然違って「おもてなし」という意味です。

 

話がそれましたので戻しますが、福祉などの対人援助関係の仕事をしていると、相性などもあって、どうしてもご利用者さんのことを好きになれないなんてこともあると思います。

いつもすぐに憎まれ口を叩いてくるとか、反応が可愛くない(素直じゃない、憎たらしい)とか(言い過ぎ?)。

また、不良行為や他害行為などをするご利用者さんの支援をすることもあると思います。

そして、こういう言い方はどうかなとも思いますが、ご利用者さんも普通の一人の人間なのであって、良いところもあれば悪いところも必ずありますし、必ずしも善人であるとも限りません(聖人ではないのです)。

人は誰か初めての人と接するとき、「良い人」であることを前提にしているんだと思います。

ですから、その人に何か嫌な点を見つけると、悪い点ばかりが目について、その「良い人」という前提が崩れてマイナスなイメージを持ってしまうということがあるように思えます。

そういうこともあって、どうしても好きになれないご利用者さんもいると思うんですよね。

ですが、極論でとても難しいことではありますが、ここでお話しした内容から考えると、好きになれなくても「愛する」ことはできると思われます。

それこそ、「傾聴」などによる「受容」や「共感」を通してということになると思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?

嫌いなご利用者さんには、嫌いになる状況を作らないようにするためという心理が働くのか、関心が薄れ、または距離をとって「薄愛」になってしまいがちかもしれませんが、くれぐれも「博愛」の精神でご利用者さんと接していきたいものです(¯―¯٥)。

もちろんですが、「虐待」は絶対にやめましょう!

「虐待」といえば、たとえば、あまりにも「虐待」につながる事例が多かったので、安全を守るための「拘束」であっても「身体拘束」として禁止されるに至っているのです。

「身体拘束」は「虐待」になります。

すべての「虐待」は法律違反ですので「犯罪」です。

 

まあ、でも、「好き」も「愛してる」もそこまで考えて使い分けている人はいないだろうと思われますが(「好き」は「友だち」、「愛してる」は「恋人」なんて使い分けはしてるかもしれませんが)、歌謡曲などのラブソングも、「好き」とか「愛してる」の言葉が出てきときに、こんなことを考えながら聴くと、また違って聴こえてくるかもしれませんね。😁

 

今回はサクッとこんな感じで終わりたいと思います。

文章は短いですが、これ結構なんでだろうって考えたんですよ。

でも、いつもこんなことばかり考えているわけではありませんよ。

たまたまですよ(変なやつだと思わないでくださいね)。

では、また次回もよろしくお願いします。

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今日の“せなくん”“まるしゃん”“りりたん” 3匹は見た⁉

 

福祉士が勉強する用語にどんなのがあるの?

 こんにちは、せなパパです。

今回は、社会福祉士精神保健福祉士といった福祉士が国家試験のため?に勉強する用語で、私が印象に残っているものを、いくつか紹介していこうと思います。(今回の「用語」は、介護福祉士には出てこないかも?)

しかし、実際、あまり使うかどうかは分かりません。(こんなこと言うと怒られるかも?)

 

まずは、ニンビーNIMBY : Not In My Back Yard)です。

これは、「社会的に必要な事業ではあることは認めるが、自らの居住地域で行うことには反対する住民の姿勢」などを表す表現です。

本来は、「我が家の裏庭ではやらないで」という意味ですね。

この表現が用いられるものの例えに、ごみ焼却場や原子力発電所精神科病院、軍事基地などの様々な施設の建設などがあげられます。

偏見に基づいているものも少なからず多いと思われます。

また、あまり良い例ではありませんが、「うちの学校の生徒会長は熱い性格だし、信頼できるけど、うちのクラスにいたら“ニンビー”だよね」なんて使い方もアリかもしれませんね?(すみません、あまりこういう用語の場合、良い例えが思いつきませんでした(¯―¯٥))

まあ、「必要だけど、自分の近くにあったら(いたら)不快(嫌)だな」ってことですよね。

東京電力の福島原子力発電所が、関東ではなく、東北の福島県にあったことも、東京の住民の“ニンビー”からなんじゃないか?なんて思ってみたりします。

ちなみに、“ニンビー”の反対の言葉は、“インビー”(YIMBY : Yes In My Back Yard)です。

「Not」が「Yes」に変わって、「ぜひ、我が家の裏庭でやって」とでもいう意味になるんでしょうかね。

 

次は、「社会的ジレンマ」です。

これは、「個人がそれぞれの利益を求めて行動することによって、社会が不利益を被り(こうむり)、結果的に、その個人も不利益を被ることへの葛藤(板挟み)感情」のことです。

これは、環境保全などの地球環境問題等でも考えていかなければならない要素です。

これには、「共有地(コモンズ)の悲劇」と「囚人のジレンマ」という2つの有名な例えがあります。

共有地の悲劇」から紹介します。

 

昔、羊飼いたちが、各々の牧草地で羊を育てていました。

そんなある時、お互いの共存共栄と土地の管理のために、広い共用の牧草地を複数の羊飼いで分け合って使用することになりました。

共用の牧草地を使用する羊飼いたちは、各々がより多くの自分の羊に牧草をたくさん食べさせて、大きな羊に育てたいと考えました。

そして、多くの羊飼いは、より多くの羊を牧草地に放ち、牧草に制限を設けず、羊の気の向くままに牧草を食べさせました。

その結果、牧草地はたちまち荒れ地になってしまいました。

 

通常、羊飼いたちは、自分の牧草地であれば、最大限の利益を得ることを考えながらも、羊が牧草を食べすぎないように、羊の数を管理したりして調整しますが、共有地では、自分の羊がよりたくさんの牧草を食べないと、他の羊飼いの羊に食べられてしまい、自分の利益が減ってしまうので、羊の数に制限をかけずに共有地に放したり、牧草を食べる量に制限を設けなかったのです。

結果、全ての羊飼いたちが被害を受けることになったのです。

 

こういうことって、よくあると思いませんか?

たとえば、最近の温暖化の問題のことなどを考えると、夏場にエアコンの温度を高めに設定した方が良いと分かっていても、ついつい暑さに負けて温度を低く設定してしまうというようなことです。

結果、温暖化が進み、今よりもっと暑い環境になってしまい、自分を含む皆が被害を被ることになるわけです。

また、漁業などで、漁獲量に制限を設けずに魚を獲り過ぎて、結果、魚が大きく育たず、数自体も減って、漁業が衰退してしまうというようなことです。

 

次に「囚人のジレンマ」を紹介しますが、少しややこしいですのでゆっくり読んでくださいね。

 

AとBという2人の男がある犯罪に関与した疑いで警察に捕まりましたが、決定的な証拠がなく、2人は別々の部屋で尋問を受けています。

警察は2人の男に別々に取引を持ちかけます。

2人の男は別々の部屋に隔離されているので、お互いに相談することはできません。

取引の内容は次の3つです。

・2人とも自白しなければ、ともに1年の禁固刑になる。

・1人だけが自白したら、自白した者はすぐに釈放されるが、もう1人は10年の禁固刑になる。

・2人とも自白したら、ともに5年の禁固刑になる。

AとBは悩んだ挙げ句、2人とも自白してしまいました。

 

AとBが相談できれば、2人とも自白しないで1年の禁固刑を選ぶのが一番良い選択だとおもいますが、相手の出方が分からないため、相手が先に自白すれば自分だけが10年の禁固刑になるという恐怖感にかられ、結果、2人とも自白してしまったということになります。

結局、2人とも最善の結果を得られなかったということになりますね。

 

これも、よくあることだと思いませんか?

たとえば、ファストフード店やガソリンスタンドなどの格安競争において、相手のお店より自分のお店の商品の価格を安く抑えて提供すると、客を増やすことができるかもしれませんが、相手のお店も商品の価格を同じように安く抑えて提供すれば、客の数は両店とも同じようになり、価格を安く抑えた分、結果的に売上が下がるということになります。

また、集団のなかで掃除当番を決めていても、誰かがサボると、他の皆の負担が大きくなって、結果、誰も掃除をしなくなり、皆が快適に過ごせなくなります。

 

これら、「共有地(コモンズ)の悲劇」と「囚人のジレンマ」は違うことを言っているようにも思えるかもしれませんが、実は同じことを言っていて、「共有地の悲劇」は集団内における例で、「囚人のジレンマ」は二者間における例ということになります。

 

そして、次は「フリーライダー」という用語を紹介しますね。

ナンダカかっこいい呼び方ですが、これは「ある集団がメンバー同士の貢献によってなんらかの利益を産み出すとき、自分は何も貢献せず、他のメンバーに貢献させておいて、得られた利益の恩恵にだけはあずかる人」のことを言います。

集団の利益に「タダ乗りする人」という意味になります。

意味を知ると、あまりカッコよくはありませんね。

先ほどの「共有地の悲劇」での温暖化の例でいうと、温暖化を避けるために皆が協力して夏場のエアコンの設定温度を高く設定しているのに、自分だけは良いだろう、バレないだろうという思いから、自分の部屋だけエアコンの設定温度を低く設定しておいて、他の皆の協力により温暖化が緩和されたら、その恩恵にだけはさずかるような人のことです。

会社での評価が低くて給料だけは当たり前にもらっている、昔よく使われた言葉で「給料泥棒」の人のことも当てはまると思います。(えっ、私のこと?(T_T))

ただ、この「給料泥棒」の場合は、会社や事業主側の視点に立った言い方で、「フリーライダー」は、職場の同僚などの周囲の視点が強調された言い方になると思います。

現在では、上司が部下に「給料泥棒」なんて言うと、パワハラで訴えられるかもしれませんね。

 

もう少し紹介しましょうか。

次は、「ヒエラルヒー」(「ヒエラルキー」とも言います)です。

これは、「階層性」という意味で、「上下関係によって階層的に秩序づけられたピラミッド型の組織の体系(階級支配制度)」のことです。

「官僚制」などがこれに当たりますね。

ヒエラルヒー」と意味が似た言葉に「カースト」というのがありますが、これは一般的にインドにおける過去の身分制度のことで、差別的な意味合いを持ち、階級は自分では変えられませんが、「ヒエラルヒー」では階層の移動が可能で、差別的な意味合いを持ちません。

介護職などの福祉職が働く職場にも、病院などの医療提供施設とそうでない福祉施設があると思いますが、病院などの医療現場では医師の指示を頂点としてコメディカルスタッフがいるというようなトップダウンのピラミッド型の構図となっていて、これが、いわゆる「ヒエラルヒー」に当たると思います。

当然、「治療」が目的となり、「患者さんの病気を治してあげたい」という思いが重要になるでしょう。

これに対して、福祉施設では、多職種の全てがほぼ横並びのドーナツ型となっていて多職種協働が前提となっています。

このような福祉施設での組織の体系のことを「ホラクラシー」と言います。

こちらでは、「生活の質」の向上が目的となり、「利用者さんの社会参加が低下しないように環境を整えてあげたい」という思いが大切になります。

介護職などの福祉職にとって、どちらの職場が働きやすいかは、その人その人の価値観によると思われますね。

 

そして、「相対的剥奪」にいきましょうか。

これは、「現在の状態と期待している状態のギャップ」のことを指します。

この「相対的剥奪」が大きいということは、不満が大きい状態と言えます。

たとえば、これまでは会社の業績が良くて、給料の昇給額が大きかったとしても、いつか業績は横ばいになってくると思われます。

そうなってくると、給料の昇給額は小さくなってくるとも考えられます。

それでも昇給はしているのですが、社員の不満は高まるかもしれません。

そんなときに、「今の会社の昇給、“相対的剥奪”だよね」なんて使い方ができるかもしれませんね。(これまた、すみません(¯―¯٥))

 

コンピテンシー」なんて用語もあります。

これは聞いたことがある方も多いかもしれませんね。

意味は「職務や役割において優秀な成果を発揮する行動特性」のことです。

「うちの学校の野球部の連中、試合に勝つ“コンピテンシー”抜群じゃね?」なんて使い方ができるかもですね。(すみません(¯―¯٥))

 

この「コンピテンシー」に少しだけ意味が似ている用語に「創発特性」というものがあります。(「特性」という言葉が一致しているだけですが‥‥‥)

これは、「複数の要素が集まって一つの全体をつくると、元の要素にはない新しい特徴が現れること」を意味します。

たとえば、動物の脳は神経細胞の集まりで、一つひとつの神経細胞は、割と単純な活動をしているに過ぎませんが、それらが集まることで知能をもつなど、とても高度な働きをしています。

また、絵本の「スイミー」では、小さな魚たちが集まって大きな魚に見せかけていますが、これも「創発特性」の一つといって良いと思います。

そして、「あそこの学校の生徒は、なんかバンカラな感じ」(古い?)というのがあるかもしれません。

その学校の生徒にも、一人ひとり個性があって皆違うはずなのですが、集団になるとその学校独自のバンカラな特徴が出てくるということです。

これも「創発特性」の例ですね。

「あの学校の“創発特性”はバンカラだね」という使い方ができそうです。

ちなみに、「バンカラ」とは、「ハイカラ(西洋風の身なりや生活様式)」をもじった語で、粗野や野蛮な様子(言動などが荒々しい様子、または、あえてそのように振る舞う人のこと)を言います。

バンカラ」なんて言葉、今じゃもう使いませんかね?

この「バンカラ」は、福祉士が勉強する用語とは違いますからね。

 

最後に「ソーシャルキャピタル社会関係資本)」を紹介します。

これは「人と人との関係性やつながりを資源として捉えて評価する考え方」で、「信頼や規範、ネットワークなど、社会や地域コミュニティにおける人々の相互関係や結びつきを支える仕組みの重要性を説く考え方」のことです。

人と人とのつながり(社会関係)を資本(資源)として考えようということですね。

「今度の文化祭、うちのクラスの“ソーシャルキャピタル”バッチリだね」(¯―¯٥)なんて使えるかもですね。

 

どうだったですか?

社会福祉士精神保健福祉士の勉強をしていると、何の科目だったかは忘れてしましましたが、共通問題のところでこれらの用語が出てきます。

まだまだ、たくさんあったんですが、文字数の関係でこのくらいにしておきます。

なにか気に入った用語がありましたか?

なにか気に入った用語が見つかったら、それに関連したいろいろな用語を調べてみるのも、自分なりの物事の考え方を構築していくうえで役立つかもしれませんね。

今回はここまでにします。

次回もまた、よろしくお願いします。

 

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今日の“せなくん” 目が髪の毛で隠れてしまいました。(¯―¯٥)

 

睡眠中の夢ってどういうこと?

 こんにちは、せなパパです。

今回は、「自立」とかとは直接関係ないかもしれませんが、「睡眠」と「夢」についてお話ししていこうと思います。

 

名言をみつけました。

 

睡眠は、ちょうど昼間に主人が散らかしたものを夜中に忍び込んで、そっと片づけてゆく童話の小人たちのようだ

 

夢でも人生でも、ときどき飛躍と終止符がないと、必然的に暗くなってしまうのではあるまいか

 

皆さんはよく眠れていますか?

私は寝付きが悪くて困っているんですが、「睡眠」はとても大事です。

1日に必要な睡眠時間は6時間~10時間といいますが、個人差があるようです。(以前は、よく8時間とか言ってましたが、最近は7時間とか言いますよね。)

夜勤の多い職業の人は寿命が短いなんていう統計データもあるようですよ。

寝付きを良くするには朝起きた時に日光を浴びると良いそうです。

人の身体のなかには、約24時間周期で活動と休息を図るための体内時計が存在するのですが、その機能を果たしているのが、間脳視床下部の視交叉上核です。

そして、体内時計によるリズムのことを「概日リズム(サーカディアンリズム)」と言います。

この概日リズムに関係して、睡眠を司る(つかさどる)ホルモンに、間脳の松果体というところから分泌される「メラトニン」があります。(「ホルモン」と「フェロモン」の関係は以前、「コーヒーブレイク2」のなかでお話ししましたよね。)

朝、日光を浴びると、「メラトニン」の分泌が抑制されて、また、14~16時間後の夜に再び分泌されるそうです。

また、概日リズムは正確には25時間周期になっているらしく、朝、日光を浴びることで、一旦リセットされ、24時間周期が維持されるようです。

朝、頭が働かないからと、炭水化物などの糖分を摂る方は多いようですが、寝付きを良くするためにはタンパク質を摂るのが良いようです。

朝、タンパク質を食べると、タンパク質が分解されて、アミノ酸に変わります。

そのアミノ酸のなかに必須アミノ酸というのがあって、そのうちの一つ、「トリプトファン」というのが日中に幸せホルモンと呼ばれている「セロトニン」に変わり、さらに夜には「メラトニン」に変わります。

必須アミノ酸というのは、身体のなかで作れない、摂取するしかないアミノ酸のことです。

必須アミノ酸は9種類あって、「バリン」「ロイシン」「イソロイシン」「リジン」「ヒスチジン」「トリプトファン」「スレオニン」「メチオニン」「フェニルアラニン」がそうです。

タンパク質を摂るには何が良いでしょうか?

納豆、お豆腐、お魚、卵、牛乳、豆乳なんかも良さそうですね。

特に「大豆製品」には、「イソフラボン」という女性ホルモンの「エストロゲン(卵胞ホルモン)」に似た科学構造と働きを持つ物質が含まれていることから、女性には「更年期障害」の心と体のバランスを取ったり、美しさや若々しさを保つ意味でも良いかもしれませんね。

さらに、大豆を原料とした「納豆」には、血液凝固やカルシウムを骨に沈着させて骨の形成を促す作用を持つ「ビタミンK」だったり、血液をサラサラにする成分である「ナットウキナーゼ」も含まれていますので、健康にはもってこいですね。

セロトニン」が分泌されると幸せな気持ちになるそうですが、幸せな気持ちの時にも「セロトニン」は分泌されます。

ですから、昼間は皆さん、イライラしたりしないで幸せな気持ちでいましょう。

楽しく、笑って過ごしましょう。

おかしくなくても、意識して笑うだけでも良いみたいですよ。

そうすると、昼間分泌された「セロトニン」が夜には「メラトニン」に変わり、よく眠れるようになります。

余談ですが、「セロトニン」の分泌低下は「うつ病」にも大きく関わっています。

「睡眠」といえば、副交感神経の働きが重要になってきますが、「アセチルコリン」という神経伝達物質があります。

アセチルコリン」は、自律神経の副交感神経と非常に関係が深く、副交感神経の末端から分泌されます。

ちなみに、「アセチルコリン」の分泌低下は「認知症」に大きく関わっているようです。

副交感神経というのは、寝ている時や気持ちが穏やかな時、食べ物を消化したり吸収したりする時に働きます。

ですから、しっかりと寝てしっかりと食べてくださいね。

食べ物を食べた時に副交感神経が働くから、お腹がいっぱいになると眠たくなるんですよね。

ですけど、食べてからすぐに寝るのは良くありません、

消化器官が活発に働くので良い眠りにはつながりませんので、食後2~3時間後に寝るようにしましょう。

そして、ただ食べて寝てばかりではいけません。

副交感神経というのは交感神経とバランス良く働くのが理想ですから、昼間はしっかりと動くようにしましょう。

交感神経に関係するホルモンに「アドレナリン」や「ノルアドレナリン」というものがありますよね。

昼間は、そういった「アドレナリン」や「ノルアドレナリン」を働かせて身体を動かすことで、適度な疲労感が出て夜に副交感神経が働くようになります。

「アドレナリン」などの「ホルモン」って、少ない量でもとても強力です。

アレルギーの強いので、呼吸器に異常をきたしたりするものに「アナフィラキシー」というのがあるんですが、その応急的な注射に「エピペン」というのがあります。

それも実は「アドレナリン自己注射薬」というんですよね。

また、「ステロイド」という炎症を鎮める作用に優れた薬があるんですが、この「ステロイド」も、性ホルモンや副腎皮質ホルモンなどの成分になっています。

はい、また余談でした。

ところで、「胆石」や「尿路結石」「膀胱炎」「胃炎や潰瘍」「下痢」に効く薬で「抗コリン薬」というのがあります。

この「コリン」というのは「アセチルコリン」の「コリン」です。

この薬を常用すると、「アセチルコリン」の分泌が抑制されて、副交感神経が働きにくくなることが考えられますね。

ですから、医師の言いつけをきちんと守って服用するようにしましょうね。

ちなみに、「抗ヒスタミン薬」というのがありますが、「ヒスタミン」という神経伝達物質は「じんましん」や「皮膚炎」「アレルギー性鼻炎」「喘息」などのアレルギー反応を引き起こす体内物質で、人の覚醒状態を維持するためにも機能します。

ですので、「抗ヒスタミン薬」には、眠気をもたらす作用があります。

ヒスタミン薬は、かぜ薬などに多いですよね。

余談だらけですが、眠りを良くするには、寝る2~3時間前に38~41℃くらいの少しぬるめのお風呂に浸かるのも良いでしょう。

寝るまでの間に体温も下がってきて、副交感神経が働きやすくなります。

42℃以上の熱めのお湯のお風呂に入ると、逆に交感神経が働いて眠りにくくなります。

そして、夜にはあまりコーヒーやお茶を飲みすぎないようにしてください。

コーヒーやお茶にはカフェインが含まれていますので、眠りにくくなりますし、利尿作用もありますので、おしっこがしたくなって夜中に目が覚めてしまいます。

そして、15時以降には昼寝はしない方が良いらしいです。

昼寝の時間も、せいぜい15分から30分くらいまでとのことです。

たった15分から30分なんて、なかなかなか難しいですけどね。

それから、高齢者は短い睡眠時間で十分だというのは間違っているといいます。

これは、高齢者に睡眠障害が多いということに過ぎないのだそうです。

それと、目覚めの時刻は自分に命令するとその通りになることが多いらしいです。

これは、早く目が覚めてしまう人にも試す価値はあるようです。

また、たとえ眠れなかったとしても、1日不足した分を翌日補って睡眠の収支を合わせれば、精神の健康は保たれるそうです。

2日で睡眠の収支を合わせれば良いということですね。

そして、たとえ夜眠れなかったりしても、朝は決まった時間に起きることです。

そして、太陽の光をしっかりと浴びてくださいね。

 

続いて睡眠中の「夢」のお話をしたいと思います。

私は、最近はあまり「夢」を見ないのですが、皆さんは「夢」は見ますか?

「夢」は見ないという方も多いかもしれませんが、実は皆さん「夢」は見ていて覚えていないことが多いようなんですよね。

眠っているうちに「夢」の話に決着がついていると、「夢」を見たことを覚えていないらしく、「夢」を見ていないと思うようです。

それが健康な状態です。

睡眠には「ノンレム睡眠」と「レム睡眠」があって、それらは交互にやってきます。

「ノンレム睡眠」は、脳中心の休息で、「レム睡眠」が、身体中心の休息となるみたいです。

それで、この「レム睡眠」の時には、眠ってはいても目は動いていて、この時に「夢」を見ているらしいです。

誰でも1時間半から2時間おきに数分~十数分、「夢」を見ているといいます。

そして、「夢」は、飛躍した突拍子もない展開になったり、日常の出来事を象徴化するから分かりづらいようです。

象徴化というのは、たとえば、「雷の音」が「大砲の音になる」とか、「尿意」が「洪水が起こる」とかいった感じらしいです。

空を飛ぶとか深い空間を落ちていくというような「夢」は、「夢」を見る時にからだの緊張がゆるんでいっているからということもあるようです。

私は以前、空を飛ぶというよりは、「頑張れば少し宙に浮くことができることもあるんですが、私が宙に浮いていても誰もそれに関心を向けていない」という「夢」をよく見ていました。

これってなんだったんでしょうね(¯―¯٥)。

試験の「夢」は何かの困難が迫っていて、それを乗り切れるか心配していると考えて良く、その困難にぶつかっていることを認めていないか、認めたくない時に多く見るようです。

毎晩同じ「夢」を見るのは、解決できない問題にぶつかって虚しい(無駄な)努力をしていないか考えて見る必要があるみたいです。

昼間にやったことをそのまま「夢」に見る場合は、昼間の成果にどこか無意識に不満があって、心残りがある場合が多いそうです。

このような「夢」が一般的に大部分であるらしく、その「夢」はだいたい昼間の筋書き通りらしいのですが、実際より自分に都合が良いように変わっていて、心残りを解決しようとしているのだそうです。

こうやって心残りを処理しようとするのを「夢作業」といいます。

だいたい「夢」は目が覚めてから数分で急速に忘れていき、2時間位で大筋しか分からなくなり、昼頃までに忘れているのが正常な精神健康の状態らしいです。

さっき、「夢」に飛躍があると言いましたが、この飛躍があるのも正常な精神健康の印だといいます。

「夢」を見ている「レム睡眠」は目覚める少し前の1時間位が長く、「夢」の内容も、眠りはじめの頃に比べてずいぶん豊かになっていることが多いといいます。

目覚め前の「夢」は、なんとか「夢」の内容に決着をつけようと焦っているような状態らしいです。

目覚まし時計で起きた時に、1日中すごく不愉快な思いがするのは、この「レム睡眠」の時にたまたま目覚まし時計が鳴ったからということが多いといいます。

この「夢」の内容に決着がつかないことが、「夢」の内容をはっきりとしたものにさせて、その日中、または何日も覚えていることになるようです。

問題が大きすぎて、処理できたかできなかったかのギリギリのところだったからのようですね。

逆に完全に処理できた「夢」は全然思い出せないといいます。

良い「夢」を覚えているのは、その内容が自分にとって、処理できなかったということになるんでしょうかね?

私たちが、目が覚めてから思い出す「夢」のことを「夢回想」といい、おそらくは目覚める前に見ている「夢」を主にして、その断片を単純化して、都合の悪いところや訳の分からないところは削ってつじつまを合わせてうまく編集したものみたいです。

ですから、「夢」 の中で解決がついてしまえば「何か『夢』を見たなぁ」というくらいしか記憶に残らないそうです。

さっき、飛躍のある「夢」は一般的に健康であると言いましたが、飛躍なしに続く「夢」はあまり良い結末に終わることがないらしいです。

「悪夢」というのは、最初が良くてもだんだん内容が悪くなって、ついには「夢」から放り出されてしまうことのようです。

追い詰められて、自律神経症状といいますが、動悸や冷汗、恐怖感とともに目が覚めるというものです。

「夢」では処理できない問題に出くわしていることが多いようですね。

毎晩同じ場面設定の「夢」を見て、日ごとに「夢」の内容がどんどん悪くなって、それに続いて全不眠が始まれば、重大な精神疾患の始まりかもしれませんね。

そして、一生に関わるような非常に影響力のある印象の強い「夢」を「ビッグドリーム」というそうです。

壮大な「夢」で一生忘れられないものらしいですが、誰でも見るものではないようです。

 

まあ、眠っている時の「夢」は見ているかどうか分からなくても、人生の目標となる「夢」は、いつまでも持ち続けていたいものですね。

 

今回は、ここまでにします。

次回もどうか、よろしくお願いします。

 

【引用及び参考文献】

中井久夫山口直彦(2016)『看護のための精神医学(第2版)』医学書

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今日の“せなくん” 大騒ぎです(¯―¯٥)