「私はあなたが好きです」の「あなたが」は主語なの?(?_?)
こんにちは、せなパパです。
今回は、いつもとは少し違ったマニアックな感じでお話ししたいと思います。
えっ?いつもマニアック?(¯―¯٥)。
歌謡曲などのラブソングの歌詞に「好き」とか「愛してる」などの言葉が多く出てきていると思います。
皆さんが日常よく使うかどうかは分かりませんが、皆さんは、「私はあなたが好きです」と言った場合の「あなたが」は主語なのかな?みたいなこと、考えたことはありませんか?
ないですかね‥‥‥(¯―¯٥)。
では!気を取り直して。
「私はあなたが好きです」と言うとき、主語は「私は」になりますよね。
「あなたが」は目的語になるのですが、目的語とは「~を」とか「~に」とかの格助詞がつくはずなのですが、ここでは「~が」という格助詞になっています。
一般的に「~が」や「~は」という格助詞がつくと主語になりますよね。
では、「好き」は動詞なのでしょうか?
正確には「好き」は形容動詞といって、意味合い的には形容詞と同じ性質を持っているようです。
形容詞は「状態」を表しますから、ここでは「あなたを」好きな「状態」であるということを示しています。
そして、目的語の「あなたを」を強調して「あなたが」になっていると考えられます。
ですが、「私はあなたを好きです」とは言いませんよね。
ナンカ変だと思いませんか?
一方、「私はあなたを愛しています」とも言いますよね。
この場合は、明確に「あなたを」は、「~を」という格助詞を持った目的語です。
そして、「私は」が「~は」という格助詞を持った主語で、「愛しています」が動詞です。
ですが、どんなに「あなたを」を強調しようとしても、「私はあなたが愛しています」とは言いません。
ちなみに、英語には形容動詞というものはありません。
「私はあなたが好きです」は「I like you」ですし、「私はあなたを愛しています」は「I love you」で、「like」も「love」も同じ動詞です。
ですから、これは日本独自のものなんでしょうね。
ここからは、私の考えです。
「私はあなたが好きです」と言った場合の「あなた」は、「あなたが」となっていますから、「あなた」が主語的に働いて「私があなたのことを好きになっている状態」に対しての主体になっていると思われます。
「あなた」が主語的な役割を持って、「私」に作用して、または影響して、「好きな状態」にさせたということです。
ですから、「あなた」は私に「好かれている」という受動的な意味合いも持つと思われます。
これに対して「私はあなたを愛しています」と言った場合は、「あなた」が「私」に作用した、または影響したかどうかには関わらず、一方的に(好意的に?)「愛しています」ということになると思います。
ということは、「あなた」のことが「嫌い」でも「愛する」ことはできるということになるのではないかと思います。
逆に、「あなた」のことが「好き」でも「憎む」ことができるのではないかと‥‥‥。
こうして考えてみると、「好き」とか「嫌い」という感情よりも「愛する」とか「憎む」という行為の方が、より主体的で強いように思われます。
先ほど、形容動詞というのは日本独自のものということをお話ししましたが、この「好き」「嫌い」よりも「愛する」「憎む」の方が主体的で強いという点は一致しているように思われます。
「好き」=「愛してる」ではない場合もあり得るということになりますが、「愛する」行為の方が「好き」という感情より主体的で強いのであれば、「愛する」ことにより「好き」になれることはあり得るかもしれませんね。
キリスト教の教えなどで「自分を愛するように隣人を愛せよ」や「敵を愛せ」というのもこういうことなんでしょうかね。
ちなみに、敵でない人を愛することを「慈愛」、敵をも愛することを「博愛」と言うと誰かが言ってましたが、本当なのでしょうか(。・_・。)。
こうして考えてみると、「好き」とか「嫌い」とかは、それぞれが作用し、影響しあっている意味で、より社会的な印象を受けます。
これに対して「愛する」とか「憎む」というのは、より個人的で一人の世界というか、そういった印象です。
ということは、「好き」になれるかどうかは、より周囲の状況に影響されるということにもなりますし、「人的環境」も含めて「環境」に働きかけることによって改善できるということにもなるかもしれません。
一方、「愛する」ということは、より個人の素質や裁量、力量に委ねられることになると思います。
ですから、たとえば、職員の誰かが職場を好きになれるかどうかは、周囲の「人的環境」を含む「環境」への働きかけ次第で変えられるけれども、職場や仕事を愛せるかどうかはその人次第ということになるかもしれません。
先ほどキリスト教を持ち出しましたけれども、宗教というのはこうした「愛する」といいうような個人に任されることに影響を与えるものなのでしょうね。
そして、各個人個人が変わっていけば、それが広がりを見せて、やがて社会も変わっていくということになるのだろうと思います。
また、「好き」とか「嫌い」とかは「社会モデル」的な概念で、「愛する」とか「憎む」とかは「医学モデル」的な概念とでも言えるでしょうか。(う、かなり強引すぎるか?)
私は、常々、「自立」とは「適切な社会との関わりを持つこと」であると考えていて、「引きこもり」というのが最悪な状態だと思っています。
「自立」を促すには、社会に出ることを「好き」にしてあげることが大事だと思っていますが、「愛する」必要まではないんじゃないかと(もちろん、それに越したことはないかもしれませんが)。
私もインドア派なので、外出せずに家にこもるのは嫌いではないですし‥‥‥(T_T)。
ですから、社会に出ることをためらっている人には、社会の素晴らしさを伝えてあげて(情報提供を含む)(それを伝える人が「人的環境」です)、社会に疲れてうんざりしてしまった人には、社会に働きかけて、また社会に出ることに魅力を感じてもらえるように環境(もちろん「人的環境」も含みます)を変えていくことが大事だと思います。
特に、「障害」を理由に「引きこもる」ことがないようにしなければならないと感じています。
福祉サービスもできるだけ、「入所」よりも「通所」と「訪問」のサービスを併用して利用するのがベターではないかと思います(もちろん、可能な限りですが)。
「長期入所」や「長期入院」は、「ホスピタリズム」(「ホスピタリゼーション」ということもある)といって、どうしても小さな社会になってしまい、広い社会とのつながりが薄くなりがちで、「社会性」や「意欲」といったものが減退していく傾向にあるようです。
また、幼児などの児童では、ある意味、いたしかたない理由により、感情や情緒の表現が抑えられ、無関心、無感動、無表情といった状態になったり、コミュニケーション能力などの発達もかなり遅れるという報告もあり、情緒的な障害や身体的な発育の遅れもみられる場合が多いといいます。
ちなみに「ホスピタリズム」と似た言葉に「ホスピタリティー」というのがありますが、意味は全然違って「おもてなし」という意味です。
話がそれましたので戻しますが、福祉などの対人援助関係の仕事をしていると、相性などもあって、どうしてもご利用者さんのことを好きになれないなんてこともあると思います。
いつもすぐに憎まれ口を叩いてくるとか、反応が可愛くない(素直じゃない、憎たらしい)とか(言い過ぎ?)。
また、不良行為や他害行為などをするご利用者さんの支援をすることもあると思います。
そして、こういう言い方はどうかなとも思いますが、ご利用者さんも普通の一人の人間なのであって、良いところもあれば悪いところも必ずありますし、必ずしも善人であるとも限りません(聖人ではないのです)。
人は誰か初めての人と接するとき、「良い人」であることを前提にしているんだと思います。
ですから、その人に何か嫌な点を見つけると、悪い点ばかりが目について、その「良い人」という前提が崩れてマイナスなイメージを持ってしまうということがあるように思えます。
そういうこともあって、どうしても好きになれないご利用者さんもいると思うんですよね。
ですが、極論でとても難しいことではありますが、ここでお話しした内容から考えると、好きになれなくても「愛する」ことはできると思われます。
それこそ、「傾聴」などによる「受容」や「共感」を通してということになると思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか?
嫌いなご利用者さんには、嫌いになる状況を作らないようにするためという心理が働くのか、関心が薄れ、または距離をとって「薄愛」になってしまいがちかもしれませんが、くれぐれも「博愛」の精神でご利用者さんと接していきたいものです(¯―¯٥)。
もちろんですが、「虐待」は絶対にやめましょう!
「虐待」といえば、たとえば、あまりにも「虐待」につながる事例が多かったので、安全を守るための「拘束」であっても「身体拘束」として禁止されるに至っているのです。
「身体拘束」は「虐待」になります。
すべての「虐待」は法律違反ですので「犯罪」です。
まあ、でも、「好き」も「愛してる」もそこまで考えて使い分けている人はいないだろうと思われますが(「好き」は「友だち」、「愛してる」は「恋人」なんて使い分けはしてるかもしれませんが)、歌謡曲などのラブソングも、「好き」とか「愛してる」の言葉が出てきときに、こんなことを考えながら聴くと、また違って聴こえてくるかもしれませんね。😁
今回はサクッとこんな感じで終わりたいと思います。
文章は短いですが、これ結構なんでだろうって考えたんですよ。
でも、いつもこんなことばかり考えているわけではありませんよ。
たまたまですよ(変なやつだと思わないでくださいね)。
では、また次回もよろしくお願いします。