「療育」ってなんなのだろう?

 こんにちは、最近ご無沙汰気味のせなパパです。

最近、「療育」って言葉をよく聞くようになってきましたが、その「療育」の意味をきちんと理解している方は意外と少ないのでないかと思いまして、今回は「療育」に関してお話ししていきたいと思います。

 

「療育」とは、「障害を抱える子どもが社会的に自立した生活を送れるようにするための医療や保育といった支援」のことで、現在では「発達支援」とほぼ同義語として使われているようです。

この「療育」という言葉は、もともと身体障害を抱える子どもへの治療と教育を合わせたアプローチを表す用語として使われていたようですが、今では障害のある子どもの発達を支援する働きかけの総称として使われることが多くなっているという経緯があります。

こういったことから、「療育」は、身体障害や発達障害、知的障害など、様々な障害の特徴や子どもたちの特性に応じた、幅広い支援を実施することが特徴になっています。

 

また、「障害者手帳」には、「身体障害者手帳」と「精神障害者保健福祉手帳」、「療育手帳」があるのをご存知の方も多いとおもうのですが、この「療育手帳」は、主に「知的障害」を抱えていることを証明する障害者手帳で、子どもの頃に取得する人が多いといえます。

発達障害」を抱えていている人の中には、「知的障害」も抱えているという人も割と多くいますので、「療育手帳」を持っている人が多いといえます。

これらのことから、「療育」は「知的障害」や「発達障害」を対象にしているというイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。

実際に、「放課後等デイサービス」や「児童発達支援事業所(センター)」などを利用しているのは、「発達障害」や「知的障害」を抱えた子どもである割合が非常に高くなっている現状があると思います。

 

では、私なりに「療育」とはどういった支援を行うべきなのかを考えてみます。

「療育」の効果を見てみますと、「日常生活に必要な能力が身につく」「社会性やコミュニケーション能力が身につく」「自己肯定感(自分に自信を持つこと)が高まる」といったものがあります。

逆に言うと、これらの効果を狙った支援を行うことが「療育」ということになるのかもしれません。

また、「療育」とは、障害を抱えた子どもが「社会的」に自立した生活を送るための支援ですから、障害を抱えた子どもたちが、社会に出ていきやすいように、社会のルールやマナーが守れるようにしなければなりません。

現在、障がい者や障がい児には「合理的配慮」をしなければならいないことになっていますが、これは社会のルールやマナーを守れるような「合理的配慮」ということになると思います。

言い換えれば、社会のルールやマナーを守らなくても良いような「合理的配慮」ではないということです。

たとえば、食事のときは、むやみに離席することはマナー違反ですが、ADHDを抱えた子どもなどは、周囲の視覚的・聴覚的刺激に反応して、食事に集中できずに、つい離席してしまうということがあります。

そのために、合理的配慮として、食事中に聴覚的刺激を減らすためにイヤーマフをつけたり、視覚的刺激を減らすためにパーティションを立てたりすることがあります。

社会的ルールやマナーが守れるようにするためにはどうすれば良いでしょうか。

たとえば、知的障害や自閉症スペクトラム、選択性緘黙(かんもく)症(場面緘黙)などで、相手の言葉がうまく理解できない、もしくは、相手に理解できるように言葉でうまく伝えられない、そもそも言葉が出ないといったような、コミュニケーションをうまく取れない子どもがショッピングモールなどにお出かけしたとします。

ですが、その行き先で帰りたくなったけど、保護者などの引率者にそのことをうまく伝えられなくて、居ても立ってもいられなくなり、その場を通りかかった子どもを突き飛ばして転ばせてしまいました。

そうなると、保護者などの引率者は、大変なことをしてしまったと、突き飛ばされて転んでしまった子どもやその保護者に謝って、すぐに、お出かけしていたショッピングモールなどから帰るということもあるでしょう。

そうすると、そのコミュニケーションをうまく取れない子どもは、「お出かけしても帰りたくなった時は、誰かを突き飛ばせば帰れる」と学習してしまうのです。

こういった誤った方法を学習してしまうことを「誤学習」といいます。

そして、コミュニケーションをうまく取れない子どもが、その場を通りかかった子どもを突き飛ばした時、そのコミュニケーションをうまく取れない子どもは、「帰りたい」という気持ちを他の人に伝える方法を学習していなかったのではないかと思われます。

そのことを「未学習」といいます。

人を突き飛ばしたりする他害行為は、社会におけるルール違反です。

その「誤学習」を修正して学習させること、「未学習」のことを学習させることが「療育」だと思います。

ここでは、「帰りたい」という気持ちを「絵カード」で示すとか、何かサインを決めておくといった具合です。

「誤学習」を修正する方法として、認知行動療法的なアプローチやSST(ソーシャル・スキル・トレーニング:社会生活技能訓練)が有効かと考えられます。

認知行動療法」とは、かんたんに言うと、「同じ人が、同じ所で、同じことをすれば、同じ結果になる」が「同じ人が、同じ所で、違うことをすれば、違う結果になる」というものです。

たとえば、「ギャンブル依存症の人が、パチンコ屋のそばで、パチンコ屋の前を通れば、パチンコをしたくなってパチンコ屋に入ってしまう」のであれば、「ギャンブル依存症の人が、パチンコ屋のそばで、パチンコ屋の前を通るのを回避すれば、パチンコをしたい気持ちが抑えられてパチンコ屋に入らないですむ」といった感じです。

この対処法(コーピング)は、人それぞれ違うこともありますので、その人に合った対処法(コーピング)を考えることが大事になります。

SST」も、「認知行動療法」と同じようなアプローチになるのですが、かんたんに言うと、ある困り感のある場面において、ロールプレイ(役割演技)を用いて、より適切な行動を複数の人でブレインストーミング的手法によって考えていくというものです。

「ロールプレイ」とは、かんたんに言うと、参加者それぞれが、それぞれの役割を持ってある場面を演じることで、その場面を具体化することです。

ブレインストーミング」とは、かんたんに言うと、参加者それぞれが、否定することなく自由にアイデアを提供し合い、最も良い方法を模索することです。

ここでは、繰り返しになりますが、ある場面の「ロールプレイ」を見て、「こうすればもっと良いのではないか、それとも、ああすればもっと良くなるのではないか」などと、それぞれの意見を否定することなく出し合い整理し、まとめていくことになります。

これが「療育」の全てではありませんが、このようなことにより、障害を抱えた子どもが、社会性を高めていけるように訓練することと言えると思います。

コミュニケーションなどの障害により頭を自分の手で叩いたり、壁や床に叩きつけるような自傷行為や人を叩いたり傷つけたり、物を投げたり壊したりする自傷他害のあることを「強度行動障害」と言います。

この「強度行動障害」は、コミュニケーション障害などの何か他の中核症状があって発生する周辺症状であり、二次的障害になります。

または、そこまでなくても、何か周囲が困るような「問題行動」を起こすこと、この「問題行動」を今では、一番困っているのは本人だということから「行為障害」と呼びます。

または、何かしたくても、その思いが伝えられずに、思うことができずに「どうせ、何かしたくても思うようにならない、ダメだ」というようなことを学習してしまうことを「学習性無力感」などと言います。

このように、無気力になり引きこもるようなことも、あってはならないことだと思います。

これら「強度行動障害」や「行為障害」「学習性無力感」などは、周囲も困りますが、一番困っているのは本人であるという認識をもって、そうならないようにすることが「療育」だと思います。

私の考えでは、たとえば、学校の宿題に取り組むことを習慣づけようと指導すること自体は「療育」とはいえませんが、なんらかの障害により、学校の宿題に取り組もうとすることで、何か不適切な行動が生じることを改善しようとすることは「療育」になるのだと思います。

宿題に取り組む習慣をつけることと「障害」は関係ありませんものね。

また、学校での勉強を、社会的に必要なこと、社会生活を営むのに必要なことととらえれば、勉強を教えること自体は「療育」ではありませんが、「知的障害」や「学習障害(LD)」などの障害を抱えて勉強することが困難な子どもに、その子どもの特性に合った方法で勉強を教えることは「療育」に入るのだと思います。

それから、「愛着障害」を抱えた子どもと愛着を形成することも、社会性を獲得するという意味で「療育」と言えるでしょう。

それから、障がい児にとって、「依存」の対象を増やすことです。

私は、障がい者や障がい児の自立を拒んでいるのは、「依存」の対象が少ないことだと思っています。

「依存する」ということは「利用する」ということでもあると思います。

ですから、環境的に、障がい児が「放課後等デイサービス」や「児童発達支援事業所」、「保育所等訪問支援」(場合によっては「ショートステイ」や「訪問介護」や「訪問看護」)などにつながることも「依存」の対象を増やすということで、間接的に「療育」だと思いますし、「自立課題」などで、できることを増やすことも「療育」だと考えています。

「自立課題」とは、「自閉症スペクトラム」などを抱えた子どもたちの「構造化」を活用した活動であり訓練の方法です。

この「自立課題」や「構造化」は、またの機会にお話ししたいと思います。

ところで、少年院に入院している少年たちのなかには、知的障害や発達障害などの「障害」を抱えた者たちも多いといいます。

性犯罪や麻薬常習に手を染めた者なども多く、社会的に許されない罪だということを理解できていなかったのでしょう。

残念ながら、それらの少年たちは、適切な「療育」を受けることができなかったと言えるのかもしれません。

刑務所に入所している犯罪者のなかにも、やはり「障害」を抱えた人が多いといいます。

「障害」が軽くて、社会福祉の対象から外れた境界(ボーダー)の人たちなのかもしれませんが、やはり適切な「療育」を受けることができなかったのかもしれません。

 

「愛着」に関することで、話はそれるかもしれませんが、今から800年ほど昔、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世が50人の乳児を集めて、ある実験を行ったそうです。

その実験とは、「言葉を一切教わらなかった乳児は、どんな言葉を話すようになるのか?」を確かめるものでした。

そうして、50人の乳児は隔離され、「乳児の目を見てはいけない」「乳児に笑いかけてはいけない」「乳児に話しかけてはいけない」「乳児にミルクを与えなさい」「乳児をお風呂に入れなさい」「乳児の排泄の処理をしなさい」という条件が指示されたもとで、乳母たちにより実験が始められました。

乳児が生きるための世話はするものの、愛情は示さず、スキンシップは一切取らないというものです。

実験の結果、この50人の乳児は1歳の誕生日を迎える前に、全員死んでしまいました。

 

20世紀になってからも、アメリカの心理学者ルネ・スピッツが、戦争で孤児になった乳児55人を対象にして、スキンシップを一切行わない実験をしました。

結果は、55人中27人が2年以内に死亡し、17人が成人を迎える前に死亡、残った11人は生き残りはしたものの、その多くに知的障害や情緒障害が見られたということでした。

 

今では考えられない、胸が痛くなるような残酷な実験ですね。

これらの実験からも分かるように、人はスキンシップや愛情がないと生きるのに大きな支障が生じるのです。

もっと言えば、「人は愛されなければ死んでしまう」のです。

逆を言えば、「今、私たちが生きているのは、誰かから愛されていたから」ということです。

愛着の形成というのは、子どもが母親などの養育者に「依存」する(甘える)ことから始まります。

そして、母親などの養育者は、「子どもが元気に育つように」などと「期待」するでしょう。

「期待」することも「頼る」ことの一つと考えれば、「依存」と言えます。

さらに、子どもは、母親の「期待」に応えようとすることと思います。

これが「適切な依存関係」だと思います。

この「適切な依存関係」、つまり「適切な『頼り頼られ』の関係」を築くことが社会的に自立することだと私は考えています。

つまり、「愛着」の形成こそが、「社会性」の獲得の第一歩だと思います。

いろいろと言いましたが、どうしたら、子どもたちが「障害」を抱えていても、「適切な『頼り頼られ』の関係」を築くことができるのかを考え、実践し、「愛着」を形成していくことが「療育」なのではないでしょうか。

 

最後に、もし、孤独を感じ、寂しい思いをして悩んでいる人がいたら、伝えてあげてください。

また、もし、あなたが、そうであるのならば覚えておいてください。

あなたは一人ではありません。

先に言いましたが、もう一度言います。

「今、私たちが生きているのは、誰かから愛されていたから」であり、「今も誰かから愛されているから」なのです。

「今、あなたが生きているのも、誰かから愛されていたから」であり、「今も誰かから愛されているから」なのです。

 

今回はここまでにします。

次回もまたよろしくお願いします。

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今日の“せなくん” 女の子みたいで可愛いでしょ?❤