自立ってなんだろう?2
こんにちは、せなパパです。
今回は、障がい者の「自立」について、「ノーマライゼーション」の考え方も含めて考えてみようと思います。
まずは、初回の「ノーマライゼーションって言葉知ってる?」のところでもお話ししましたが、「ノーマライゼーション」について、もう少しお話ししてみたいと思います。
デンマークのニルス・エリク・バンク-ミケルセンが、世界で初めて「ノーマライゼーション」という概念を提唱し、「ノーマライゼーションの父」や「ノーマライゼーションの生みの親」と呼ばれることに対して、スウェーデンのベンクト・ニィリエは、「ノーマライゼーションの8原則」を提唱して「ノーマライゼーションの育ての親」と呼ばれています。
ちなみにアメリカのヴォルフ・ヴォルフェンスベルガーは、「ノーマライゼーション」という考え方をアメリカやカナダで広め、「ソーシャル・ロール・バロリゼーション(社会的役割の実践)」という概念を提唱しました。
「ソーシャル・ロール・バロリゼーション」とは、「社会的意識の面で障がい者も一般市民と対等な立場とすることを目的として、障がい者に高い社会的役割を与え、なおかつそれを維持するように能力を高めることを促す」概念です。
しかし、この考え方は、「ノーマライゼーション」の考え方とは異なると主張する人もいます。
それでは、ベンクト・ニィリエが提唱した「ノーマライゼーションの8原則」を見てみましょう。
①1日のノーマルなリズム。
これは、朝、目が覚めたら顔を洗って着替えて学校や職場へ行き、食事はベッドなどではなくきちんと食卓で済ませ、夜にはその日の振り返りを行うといったようなことです。
②1周間のノーマルなリズム。
これは、週に決まった日数、学校や職場に行き、休みの日には仲間とも遊びに行くといったようなことです。
③1年間のノーマルなリズム。
これは、季節や時期によって学校生活や職場での仕事にも変化があり、いろんな行事や余暇におけるスポーツや旅行なども楽しむといったようなことです。
④ライフサイクルにおけるノーマルな発達経験。
これは、幼少期にはたくさん友だちと遊び、青年期にはおしゃれを楽しみ、音楽や異性との交流にも興味を持ち、成人したら仕事を通して責任感を養うといったようなことです。
⑤ノーマルな個人の尊厳と自己決定権。
これは、自由と希望を持って生き、周囲もそれを認め、尊重する、自分が望む地域に住み、自ら仕事を見つけて決めるといったようなことです。
⑥ノーマルな性的関係。
これは、異性との良い関係を築き、大人になったら結婚を考えるといったようなことです。
⑦ノーマルな経済水準とそれを得る権利。
これは、障害の有無に関係なく、一般的な所得収入を保障されることで、基本的な公的財政援助を受けられることも含みます。
⑧ノーマルな環境形態と水準。
これは、望む地域で望む家に住み、その地域の人たちと交流するといったようなことです。
「障がい者」は健常者に比べて「少数派(マイノリティ)」です。
基本的に、現在の社会は、「多数派(マジョリティ)」である健常者が暮らしやすいようにできています。
まあ、私は「健常者」とは「健康な人」という意味だととらえると、その言葉もどうかと思います。
WHO(世界保健機関)の「健康」の定義では、「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病のない状態や病弱でないことではない」とされています。
これから考えると、完全に「健康」な人がどれだけいるのでしょうか?
「健常者」と呼ばれている人の中にも、今の社会に生き辛さ、「社会的障壁」を感じている人は多いのではないかと思えます。
もしかすると、「女性」のなかで、「男性」と平等ではないことを理由に、生き辛さ、「社会的障壁」を感じている人もいるかもしれません。
「女性」に関して言えば、世界人口の男女の比率はだいたい同じですので、「少数派(マイノリティ)」であるとすら言えないでしょう。
ましてや、昨今、新型コロナウィルスによるパンデミック?で、ほぼ全ての日本人が、社会において生き辛さ、「社会的障壁」を抱えているのではないでしょうか?
それで「健康」と言えるでしょうか?
その意味では誰でも社会モデルでいう、社会の側に生きるうえでの「障害」をもつという意味で、「障がい者」の立場になり得ると言えるのではないでしょうか。
まあ、それはさておいてですね、こうして見てみると、「ノーマライゼーション」は、当然のことかもしれませんが、私が以前「自立ってなんだろう?」でお話しした内容から考えて、障がい者の「自立」に大きく関係しているように思えます。
「自立」の反対語は「依存」だと思うのですが、「依存」を「頼る」という意味合いで捉えると、実は、意外と「健常者」の方が「依存」の対象が多いように思えます。
実は、「自立支援」が必要とされている「障がい者」の方が「依存」の対象が少ないのではないでしょうか?
たとえば、災害が起こった時のことを考えてみます。
大きな地震が起こったとしましょう。
その時、高層ビルの5階にいたとします。
「健常者」は、エレベーターが使えればエレベーターを、階段が無事ならば階段を、どれもダメならロープなどを「頼る」ことで逃げることができます。
しかし、「肢体不自由」などの「障がい者」は、人にかついでもらうことを「頼る」ことでしか逃げられないのです。
この「依存」する対象の少ないことこそが「障がい者」の「自立」を妨げている要因であると考えられないでしょうか?
つまり、「選択肢」が少ないということが「障がい者」の「自立」を妨げていると考えられないでしょうか?
「自立」を考える上で、自分でできることが少ないことは、何でも人まかせになることにつながります。
何でも人まかせになると、自分が本当にほしいものを手に入れることや、したいことができなくなってきます。
そうすると、これがほしい、これがしたいといった「自己決定」の機会が減ります。
人まかせにするのですから「選択肢」も少なくなります。
「自己決定」するためには「選択肢」は大事です。
ですから、「選択肢」を増やすためにも「情報提供」は大切です。
こう考えていくと、一番大事なのは「自己決定」で、そのために自分でできることを増やすことが有効だと思えます。
つまり、「自立」において、自分でできることを増やすことは「手段」であり、その目的は「自己決定」であると言えるのではないでしょうか。
もちろん、自分でできることを増やすことは、ADLやIADLの向上を通してQOLを高めることになるのですから大事ですよね。
ですが、それが「自立」のすべてではないのではないか?ということです。
ここで考えてみたいのが「ユニバーサルデザイン」です。
「ユニバーサルデザイン」には、「ユニバーサルデザイン7原則」というものがあります。
かんたんに紹介しますね。
①誰でも使えて手に入れることができる(公平性)。
たとえば、「自動ドア」や「手すり付きの階段」、「段差のない歩道」などです。
②柔軟に使用できる(自由度)。
たとえば、「多機能トイレ」や「階段・エレベーター・エスカレーターの併設」などです。
③使い方がかんたんに分かる(単純性)。
たとえば、「シャンプーとリンスのボトルの凹凸(触っただけでどちらかが分かる)」、「説明書がなくても使える家電」などです。
④使う人に必要な情報がかんたんに伝わる(分かりやすさ、明確さ)。
たとえば、「電車内の、様々な言語やひらがなで書かれている次の駅の案内表示や音声案内」などです。
⑤間違えても重大な結果にならない(安全性)。
たとえば、「使用中に扉を開けると止まる電子レンジ」などです。
⑥少ない力で効率的に、楽に使える(身体への負担の少なさ)
たとえば、「水道のレバー」や「レバーハンドル式のドアノブ」などです。
⑦使う時に適当な広さがある(スペースの確保、空間性)。
たとえば、「優先駐車スペース」や「多機能トイレ」、「手のひら全体で押すことのできるスイッチ」などです。
これでは、ちょっと分かりにくいですかね?
「ユニバーサルデザイン」と似た意味の言葉に、「バリアフリー」というものがあります。
「バリアフリー」とは、「『社会的障壁』によって制限を受ける一部の人(障がい者を含む)のために、『社会的障壁』を取り除いたり、利用しやすいようにする」という考え方です。
それに対して、「ユニバーサルデザイン」とは、「最初から障害の有無など関係なしに、すべての人に使いやすいようにデザインする」という考え方です。
「バリアフリー」の例でいうと、足の不自由な人のために段差をなくすといったものが有名ですよね。
「ユニバーサルデザイン」の例を更にあげると、音響式信号機やパソコンのキーボードのF・Jキーの突起、紙幣など、実はたくさんあります。
なかには、視覚障害者の黄色い凹凸点字ブロックを「ユニバーサルデザイン」として紹介しているものもありますが、私個人的には、車椅子を使用している人には、あの凹凸点字ブロックはむしろ障害になるので、「バリアフリー」ではないかと考えています。
「障がい者」専用の駐車スペースに一般の車両が駐車できないようにコーンなどを置いているのも何か違う気がします。
私は、このような「特定の障害」だけを対象にした「バリアフリー」では限界があり(ないよりは良いですが)、障害の有無に関係なく選択肢を広げるという意味では、「ユニバーサルデザイン」という考え方が重要になってくる気がします。(お前が考えろと言われても難しいですが‥‥‥(¯―¯٥))
「バリアフリー」では限界があるとする理由としては、上記の例もありますが、たとえば、「バリアフリー」で足が不自由な人のために段差をなくしてスロープにしたとしても、パーキンソン病の人は姿勢反射障害があり、前のめりになって止まれなくなる突進現象があるため、むしろ下りに関しては階段の方が良いということもあります。
ここで、文明社会では、それができても、「障がい者」は、その障害があるために自然界では生き残れないと考える人がいるかもしれませんが、では、その人に問いたいと思います。
「あなたは、自然界に放り出されて、一人で生き残れますか?」
「一人でも生き残れる」と自信をもって言える人はどれだけいるでしょうか?
結局、人は、誰かに頼らなければ生きていけないのです。
ですから、頼って良い、「依存」して良いと思います。
適度な「頼り」「頼られ」の関係が「社会性」であり、その実践の場が「社会」です。
ただ、一部だけに過剰な「依存」が生じるのではなく、健全な「社会性」を獲得することが一番大事な「自立(社会的自立)」であると考えます。
国連は、1981年を「国際障害者年(IYDP)」と宣言しました。
そして、そのテーマは「完全参加と平等」でした。
「完全参加」の「参加」とは、ICFの「生活機能」における「参加」とも考えられます。
つまりは、「障がい者」の「社会参加」であり、小さな社会(たとえば、家族や施設のユニットなど)であれ、大きな社会(たとえば、地域や市町村など)であれ、「役割」を持つということです。
皆が「役割」を持つことにより、「頼り」「頼られ」の関係になり、それが「社会性」であり、「社会」を構成するうえでの「社会参加」だと思います。
私は、今でも国連では、この理念がずっと引き継がれていて、そして、とても意義あるものだと思っています。
結局、以前と結論は同じようなことになってしまいました。
途中から何を言いたかったのか分からなくなってしまった感もありますが、今回はここまでにしたいと思います。
次回も、どうかよろしくお願いします。