愛着障害(アタッチメント障害)って何なんだ?(アダルトチルドレン、きょうだい児、境界性パーソナリティ障害)

 こんにちは、またまたご無沙汰ぶりの“せなパパ”です。

今回は、以前お話ししたテーマの「共依存ってどんなやつ?」の内容を広げた感じの内容になるかと思います。

もう一度、「共依存ってどんなやつ?」を見直してくださるのも良いかと思います。

 

さて、「共依存」には、「アダルトチルドレン」や「きょうだい児」の問題が絡んできます。

そして、その「共依存」を背景とした「愛着障害」が、これらの問題の根底にあると言っても良いのではないかと思います。

 

それでは、「アダルトチルドレン」とは、どういったものでしょうか?

この言葉は最近良く使われるようになりましたが、実際のところ、きちんとしたその言葉の意味を知っている方はどれだけいらっしゃるでしょうか?

「大人になりきれていない大人」や「子どものような大人」といった認識をもっている方も多いのではないかと思います。

でも実は違うんですよね。

アダルトチルドレン」とは、「子どもの頃に、家庭内トラウマ(心的外傷)によって傷つき、そして大人になった人たち」を指します。

そして、「アダルトチルドレン」は、親からの性的虐待や肉体的・心理的(言動的)暴力、両親の不仲などによる、子どもを育てる機能を果たさない家庭(「機能不全家族」)のなかで育った人にも多いといいます。

この「機能不全家族」には、子どもに対して過剰に期待したり甘やかしたりする親や、仕事に依存する父親、夫に依存する母親などがいる家庭も含まれます。

当然、「共依存ってどんなやつ?」でお話ししたような、アルコール依存症の父親と「共依存」の関係にある母親がいるような家庭も含まれます。

実際、この「アダルトチルドレン」という言葉も、アルコール依存症の親を持つ子どもたちが大人になった時に「対人関係の問題」や「生きづらさ」に悩み苦しんでいることが多いということが分かってきたことから提唱され始めたようです。

この「アダルトチルドレン」の特徴には、「相手の評価に過敏になり自分に自信がもてない」「自分の存在価値を確認できず、酒・ドラッグ・仕事などにおぼれてしまう」「対人関係が上手くいかず、居場所のなさ、生きづらさを感じる」といったものがあるようです。

 

次に「きょうだい児」ですが、皆さんはこの「きょうだい児」という言葉、聞いたことがありますか?

実は、私は最近まで、この言葉を聞いたことがなかったんです。

「きょうだい児」とは、「病気や障害を抱える兄弟姉妹を持つ子どものこと」を言います。

「きょうだい」と平仮名を使うのは、「兄弟」だけではなく、「兄弟姉妹」のことを指すからだと思われます。

「きょうだい児」は、親の関心が自分以外の病気や障害を持つ兄弟姉妹らに集中しがちで、それに加えて、周囲にからかわれて傷つくなど、孤立感にさいなまれやすいとされています。

また、親を困らせたくないといった思いから、誰かに相談することもできず、さらに孤立感を高めることもあるようです。

「きょうだい児」のいる家庭では、ある意味、病気や障害を持つ兄弟姉妹と親との間で「共依存」が成立しているとも考えられます。

また、「きょうだい児」のいる家庭では、親は「きょうだい児」に頼り、期待をかけます。

たとえば、「きょうだい児」にさらに弟や妹がいる場合、「きょうだい児」に、その弟や妹の世話を親に代わってしてもらうというようなことです。

「きょうだい児」は、その親の期待に応えようと「良い子」を演じるようになります。

ここでも、以前お話しした「共依存ってどんなやつ?」を読んでいただけると分かると思うのですが、「共依存」が成立するのです。

こういった問題を抱えた「きょうだい児」の特徴としては、「集中力の欠如」「反抗的」「興奮しやすい」「かんしゃくを起こしやすい」「不満を持っている」「ケンカをよくする」「目立ちすぎる」「多動」「多弁」などがあるようです。

「良い子」を演じるのにも限界があるようですね。

こういった「きょうだい児」が、成長して「アダルトチルドレン」と呼ばれるようになることも多いと思われます。

病気や障害を持つ子どもと親が「共依存」の関係になるのは、ある程度、仕方がない気もしますが、以前にお話しした「自立ってなんだろう?2」を読んでいただくと分かると思いますが、その病気や障害を持つ子どもの頼る(依存する)対象が親しかいないことが問題だと思います(核家族化の問題もあると思いますが‥‥‥)。

親が、上手に障害福祉サービスなどを利用して、レスパイト(世話や介護において休息を取ること)し、「きょうだい児」にも関心を持ってあげることが大切だと思います(難しいことだとは思いますが‥‥‥(¯―¯٥))。

私の知るケースに、二卵性双生児のうち一人がADHDを抱えていて、そのADHDの子どもばかりに手を取られて、もう一人の子どもに手が行き届かず、結果、そのもう一人の子どもが情緒不安定になり、結局、ADHDの子どもを障害児入所施設に入所させたという例があります。

そうなると、親もその入所させたADHDの子どもが不憫(ふびん)で自己嫌悪に陥ってしまうということにもなります。

私は、そうなる前に、なにか手が打てなかったのだろうかと考えてしまいます。

 

さて、「アダルトチルドレン」や「きょうだい児」について話してきましたが、それでは、「愛着障害」とはなんなのでしょうか?

 

愛着障害」には大きく分けて、「反応性愛着障害(反応性アタッチメント障害)」と「脱抑制型対人交流障害(脱抑制性愛着障害[脱抑制性アタッチメント障害])」の2つがあります。

「反応性愛着障害」は、「他者を警戒しすぎて頼ることができない」ことで、表情がなく、笑顔が見られない、他の子どもとの交流がない、などの特徴が見られるといいます。

陽性の感情(楽しい、うれしいなど)を表すことが少なく、陰性の感情(恐怖、悲しみ、いらだち)をよく表すそうです。

「脱抑制型対人交流障害」は、「反応性愛着障害」とは反対に、初対面の人にベタベタして「抱っこ」や「おんぶ」をねだったり、馴れ馴れしく場にそぐわない言動をしたりするのが特徴のようです。

しかし、「反応性愛着障害」と「脱抑制型対人交流障害」の特徴は正反対のように思えますが、「意地っ張り」「強情」「わがまま」「体調不良を起こしやすい」「身体が平均より小さめ」「自傷行為がある」「他害行為がある」「不眠傾向や食欲不振がある」「大人への試し行動が多い」「嘘をつく」などの特徴は一致しているようです。

「身体が平均より小さめ」というのは、施設入所の子どもにも多く見られ、真偽は不明ですが、その理由を、親と久しく会っていないために「あまり大きくなると、親に会った時に、親が自分のことを分からなくなるから」だと聞いたことがあります。

どちらにせよ、「反応性愛着障害」と「脱抑制型対人交流障害」は、幼少期の愛着形成が上手くいかなかったことが根本的な原因という点で一致しているようです。

また、症状の特徴が「自閉症スペクトラムASD)」と似ている部分があるため、混同しやすくなるようです。

 

この「愛着障害」を抱えた子どもが、そのまま大人になると、その特徴として、「人間関係の距離感が極端になりトラブルを抱える」「自己肯定感(セルフ点エスティーム)(自尊心、自信)が低い」「自律神経や胃腸の不調」「発達障害と似た症状」といったものが出てくるといいます。

こうして、「アダルトチルドレン」や「境界性パーソナリティ障害」「うつ病」になりやすいということになります。

境界性パーソナリティ障害」とは、「人間関係、自己像、気分、行動の不安定性、そして拒絶されたり、見捨てられたりする可能性に対する過敏性を特徴とする」障害です。

一人でいること、孤独と感じることに耐えきれず、人の気を引くために周囲を巻き込んで、自殺のそぶりや自傷行為などの自己破壊的行為を行ったり、見捨てられることを避けるために危機を生み出すことに必死になったりします。

衝動的に気分が変動することも多いので、周囲の人や支援する人は振り回され、結果的に支援者同士の意見の食い違いや不和を招いたりして、疲れ果てさせてしまいます。

ある精神科病院では、この「境界性パーソナリティ障害」の患者さん一人のために、病棟のスタッフの半数以上が退職したということもあったようです。

私の知る「愛着障害」を抱えた児童は、果てしなくこの「境界性パーソナリティ障害」に近い特徴を持っていて、実際に支援者は振り回されて混乱をきたしました(¯―¯٥)。

 

では、この「愛着障害」はどのようにして起こるのでしょうか?

「愛着形成」においては、「安全基地」というものが大事になってきます。

「安心感」「安全感」を与えてくれる者を「安全基地」と呼び、基本的には、幼少期の子どもは、親などの養育者を「安全基地」とします。

「8ヶ月不安」とかいう言葉を聞いたことがありませんか?

子どもは、生後8ヶ月頃から初めて見る人などに不安を覚え、いわゆる「人見知り」をするようになります。

そして、「安全基地」である親などの養育者にすがるのです。

この「安全基地」があるからこそ、子どもは周囲を探索して回り、いろんな経験を積むことができます。

そうして、やがて「安全基地」は「探求基地」へと変わっていきます。

「探求基地」が形成されると、日常の行動で「こうしたら喜ぶかな?悲しむかな?」などと、親などの養育者のことを思い浮かべられるようになります。

こうして「善」「悪」の判断ができるようになっていくとも考えられます。

ここまで来ると、「安全基地」や「探求基地」は、「家族や親戚」「友だちや教師」、将来的に「職場や仲間」「恋人や夫婦」といった具合に徐々に拡大していきます。

こうした一連の流れが「愛着形成」ということになると思います。

また、養育者から離れて、新しい「安全基地」「探求基地」を築いて広げていく「心の強さ」を「レジリエンス」と言います。

以前にお話しした「リカバリーって何のこと?」で出てきた「レジリエンス」とは違う意味で使われていますね。

つまり、こうした「愛着形成」が、「機能不全家族」などを理由に、正常に行なわれないことが「愛着障害」の原因になっていると思われるのです。

しかし、現在、社会は非常に情報にもあふれ、テレビゲームの影響などもあり、とても刺激の多い環境になっています。

このような環境だと、親などの養育者からの刺激が相対的に低下し、愛着障害」は、どの家庭でも起こりうると考えられるようになってきました。

 

では、「愛着障害」を抱えた子どもの支援はどうすればよいのでしょうか?

先ほど、「愛着障害」と「自閉症スペクトラムASD)」の症状の特徴に似ているところがあるとお話ししたと思いますが、その原因は異なっています。

自閉症スペクトラム」を抱える子どもにおいて好ましくない行動が見られた場合は、その行動に反応すると、その子どもは相手の気持ちが理解できないことから、その反応を肯定的に受け取って、好ましくない行動が増えていく可能性がありますから、「意図的な無視」が有効な場合があります。

しかし、「愛着障害」を抱えている子どもは、どのような特徴が見られていても本心では「愛着」を形成したいと思っているので、「意図的な無視」をすると、かえって逆効果になります。

そして、「愛着障害」を抱えている子どもには、最初は一対一でじっくりと愛着を形成していき、主導権を決して渡してはならないといいます。

福祉の基本は、「利用者本位」ですが、「愛着障害」を抱える子どもの支援においては、「支援者本位」とは言わないまでも、支援者が主導権を握ることで、「愛着障害」を抱えた子どもは、「この人は安心できる」「この人は守ってくれる」という思いが強まるようです。

そのためには、子どもの話を「傾聴」したり「受容」「共感」することを優先せず、子どもが話す前に「~だね」と支援者から話しかけたり、子どもが何かをしたいと言う前に「~をしよう」と支援者から促すような「先手支援」を行うことが有効なようです。

対応する時に後手に回ると「愛着障害」を抱えた子どもに主導権を握られ、「この人は自分を守ってくれる存在ではない」と判断されて、行動が悪化するようです。

なんだか、福祉に携わる身としては、どうしても違和感を感じてしまいますよね。

でも、それが正しいらしく、例外中の例外ですよね( ゚д゚)ハッ!。

また、「愛着障害」を抱えた子どもは、感情の基盤が弱いので、感情の基盤を作るために体験や感情を言語化する「ラベリング支援」も有効とのことです。

具体的には、「~はうれしいことだね」「~は悲しいことだね」といったような言葉かけですね。

それから、基本的に2歳児に関わるようにして関わるということが大事なようですね。

どこまでも、福祉的にみて例外的な支援方法になるようですね(¯―¯٥)。

かんたんに「愛着障害」を抱えた子どもの支援方法についてもお話ししてみました。

 

愛着障害」や「共依存」が、「アダルトチルドレン」や「きょうだい児」の問題に関係しているらしいことが分かっていただけたでしょうか?

今回は、ここまでにします。

次回も、またよろしくお願いします。

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今日の"まるしゃん” 耳の毛をカットしました❤

 

 

自立ってなんだろう?2

 こんにちは、せなパパです。

今回は、障がい者の「自立」について、「ノーマライゼーション」の考え方も含めて考えてみようと思います。

まずは、初回の「ノーマライゼーションって言葉知ってる?」のところでもお話ししましたが、「ノーマライゼーション」について、もう少しお話ししてみたいと思います。

デンマークのニルス・エリク・バンク-ミケルセンが、世界で初めて「ノーマライゼーション」という概念を提唱し、「ノーマライゼーションの父」や「ノーマライゼーションの生みの親」と呼ばれることに対して、スウェーデンのベンクト・ニィリエは、「ノーマライゼーションの8原則」を提唱して「ノーマライゼーションの育ての親」と呼ばれています。

ちなみにアメリカのヴォルフ・ヴォルフェンスベルガーは、「ノーマライゼーション」という考え方をアメリカやカナダで広め、「ソーシャル・ロール・バロリゼーション(社会的役割の実践)」という概念を提唱しました。

「ソーシャル・ロール・バロリゼーション」とは、「社会的意識の面で障がい者も一般市民と対等な立場とすることを目的として、障がい者に高い社会的役割を与え、なおかつそれを維持するように能力を高めることを促す」概念です。

しかし、この考え方は、「ノーマライゼーション」の考え方とは異なると主張する人もいます。

それでは、ベンクト・ニィリエが提唱した「ノーマライゼーションの8原則」を見てみましょう。

①1日のノーマルなリズム。

これは、朝、目が覚めたら顔を洗って着替えて学校や職場へ行き、食事はベッドなどではなくきちんと食卓で済ませ、夜にはその日の振り返りを行うといったようなことです。

②1周間のノーマルなリズム。

これは、週に決まった日数、学校や職場に行き、休みの日には仲間とも遊びに行くといったようなことです。

③1年間のノーマルなリズム。

これは、季節や時期によって学校生活や職場での仕事にも変化があり、いろんな行事や余暇におけるスポーツや旅行なども楽しむといったようなことです。

④ライフサイクルにおけるノーマルな発達経験。     

これは、幼少期にはたくさん友だちと遊び、青年期にはおしゃれを楽しみ、音楽や異性との交流にも興味を持ち、成人したら仕事を通して責任感を養うといったようなことです。

⑤ノーマルな個人の尊厳と自己決定権。

これは、自由と希望を持って生き、周囲もそれを認め、尊重する、自分が望む地域に住み、自ら仕事を見つけて決めるといったようなことです。

⑥ノーマルな性的関係。

これは、異性との良い関係を築き、大人になったら結婚を考えるといったようなことです。

⑦ノーマルな経済水準とそれを得る権利。

これは、障害の有無に関係なく、一般的な所得収入を保障されることで、基本的な公的財政援助を受けられることも含みます。

⑧ノーマルな環境形態と水準。

これは、望む地域で望む家に住み、その地域の人たちと交流するといったようなことです。

 

障がい者」は健常者に比べて「少数派(マイノリティ)」です。

基本的に、現在の社会は、「多数派(マジョリティ)」である健常者が暮らしやすいようにできています。

まあ、私は「健常者」とは「健康な人」という意味だととらえると、その言葉もどうかと思います。

WHO(世界保健機関)の「健康」の定義では、「健康とは身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病のない状態や病弱でないことではない」とされています。

これから考えると、完全に「健康」な人がどれだけいるのでしょうか?

「健常者」と呼ばれている人の中にも、今の社会に生き辛さ、「社会的障壁」を感じている人は多いのではないかと思えます。

もしかすると、「女性」のなかで、「男性」と平等ではないことを理由に、生き辛さ、「社会的障壁」を感じている人もいるかもしれません。

「女性」に関して言えば、世界人口の男女の比率はだいたい同じですので、「少数派(マイノリティ)」であるとすら言えないでしょう。

ましてや、昨今、新型コロナウィルスによるパンデミック?で、ほぼ全ての日本人が、社会において生き辛さ、「社会的障壁」を抱えているのではないでしょうか?

それで「健康」と言えるでしょうか?

その意味では誰でも社会モデルでいう、社会の側に生きるうえでの「障害」をもつという意味で、「障がい者」の立場になり得ると言えるのではないでしょうか。

 

まあ、それはさておいてですね、こうして見てみると、「ノーマライゼーション」は、当然のことかもしれませんが、私が以前「自立ってなんだろう?」でお話しした内容から考えて、障がい者の「自立」に大きく関係しているように思えます。

「自立」の反対語は「依存」だと思うのですが、「依存」を「頼る」という意味合いで捉えると、実は、意外と「健常者」の方が「依存」の対象が多いように思えます。

実は、「自立支援」が必要とされている「障がい者」の方が「依存」の対象が少ないのではないでしょうか?

たとえば、災害が起こった時のことを考えてみます。

大きな地震が起こったとしましょう。

その時、高層ビルの5階にいたとします。

「健常者」は、エレベーターが使えればエレベーターを、階段が無事ならば階段を、どれもダメならロープなどを「頼る」ことで逃げることができます。

しかし、「肢体不自由」などの「障がい者」は、人にかついでもらうことを「頼る」ことでしか逃げられないのです。

この「依存」する対象の少ないことこそが「障がい者」の「自立」を妨げている要因であると考えられないでしょうか?

つまり、「選択肢」が少ないということが「障がい者」の「自立」を妨げていると考えられないでしょうか?

「自立」を考える上で、自分でできることが少ないことは、何でも人まかせになることにつながります。

何でも人まかせになると、自分が本当にほしいものを手に入れることや、したいことができなくなってきます。

そうすると、これがほしい、これがしたいといった「自己決定」の機会が減ります。

人まかせにするのですから「選択肢」も少なくなります。

「自己決定」するためには「選択肢」は大事です。

ですから、「選択肢」を増やすためにも「情報提供」は大切です。

こう考えていくと、一番大事なのは「自己決定」で、そのために自分でできることを増やすことが有効だと思えます。

つまり、「自立」において、自分でできることを増やすことは「手段」であり、その目的は「自己決定」であると言えるのではないでしょうか。

もちろん、自分でできることを増やすことは、ADLやIADLの向上を通してQOLを高めることになるのですから大事ですよね。

ですが、それが「自立」のすべてではないのではないか?ということです。

 

ここで考えてみたいのが「ユニバーサルデザイン」です。

ユニバーサルデザイン」には、「ユニバーサルデザイン7原則」というものがあります。

かんたんに紹介しますね。

①誰でも使えて手に入れることができる(公平性)。

たとえば、「自動ドア」や「手すり付きの階段」、「段差のない歩道」などです。

②柔軟に使用できる(自由度)。

たとえば、「多機能トイレ」や「階段・エレベーター・エスカレーターの併設」などです。

③使い方がかんたんに分かる(単純性)。

たとえば、「シャンプーとリンスのボトルの凹凸(触っただけでどちらかが分かる)」、「説明書がなくても使える家電」などです。

④使う人に必要な情報がかんたんに伝わる(分かりやすさ、明確さ)。

たとえば、「電車内の、様々な言語やひらがなで書かれている次の駅の案内表示や音声案内」などです。

⑤間違えても重大な結果にならない(安全性)。

たとえば、「使用中に扉を開けると止まる電子レンジ」などです。

⑥少ない力で効率的に、楽に使える(身体への負担の少なさ)

たとえば、「水道のレバー」や「レバーハンドル式のドアノブ」などです。

⑦使う時に適当な広さがある(スペースの確保、空間性)。

たとえば、「優先駐車スペース」や「多機能トイレ」、「手のひら全体で押すことのできるスイッチ」などです。

これでは、ちょっと分かりにくいですかね?

ユニバーサルデザイン」と似た意味の言葉に、「バリアフリー」というものがあります。

バリアフリー」とは、「『社会的障壁』によって制限を受ける一部の人(障がい者を含む)のために、『社会的障壁』を取り除いたり、利用しやすいようにする」という考え方です。

それに対して、「ユニバーサルデザイン」とは、「最初から障害の有無など関係なしに、すべての人に使いやすいようにデザインする」という考え方です。

バリアフリー」の例でいうと、足の不自由な人のために段差をなくすといったものが有名ですよね。

ユニバーサルデザイン」の例を更にあげると、音響式信号機やパソコンのキーボードのF・Jキーの突起、紙幣など、実はたくさんあります。

なかには、視覚障害者の黄色い凹凸点字ブロックを「ユニバーサルデザイン」として紹介しているものもありますが、私個人的には、車椅子を使用している人には、あの凹凸点字ブロックはむしろ障害になるので、「バリアフリー」ではないかと考えています。

障がい者」専用の駐車スペースに一般の車両が駐車できないようにコーンなどを置いているのも何か違う気がします。

私は、このような「特定の障害」だけを対象にした「バリアフリー」では限界があり(ないよりは良いですが)、障害の有無に関係なく選択肢を広げるという意味では、「ユニバーサルデザイン」という考え方が重要になってくる気がします。(お前が考えろと言われても難しいですが‥‥‥(¯―¯٥))

バリアフリー」では限界があるとする理由としては、上記の例もありますが、たとえば、「バリアフリー」で足が不自由な人のために段差をなくしてスロープにしたとしても、パーキンソン病の人は姿勢反射障害があり、前のめりになって止まれなくなる突進現象があるため、むしろ下りに関しては階段の方が良いということもあります。

 

ここで、文明社会では、それができても、「障がい者」は、その障害があるために自然界では生き残れないと考える人がいるかもしれませんが、では、その人に問いたいと思います。

「あなたは、自然界に放り出されて、一人で生き残れますか?」

「一人でも生き残れる」と自信をもって言える人はどれだけいるでしょうか?

結局、人は、誰かに頼らなければ生きていけないのです。

ですから、頼って良い、「依存」して良いと思います。

適度な「頼り」「頼られ」の関係が「社会性」であり、その実践の場が「社会」です。

ただ、一部だけに過剰な「依存」が生じるのではなく、健全な「社会性」を獲得することが一番大事な「自立(社会的自立)」であると考えます。

国連は、1981年を「国際障害者年(IYDP)」と宣言しました。

そして、そのテーマは「完全参加と平等」でした。

「完全参加」の「参加」とは、ICFの「生活機能」における「参加」とも考えられます。

つまりは、「障がい者」の「社会参加」であり、小さな社会(たとえば、家族や施設のユニットなど)であれ、大きな社会(たとえば、地域や市町村など)であれ、「役割」を持つということです。

皆が「役割」を持つことにより、「頼り」「頼られ」の関係になり、それが「社会性」であり、「社会」を構成するうえでの「社会参加」だと思います。

私は、今でも国連では、この理念がずっと引き継がれていて、そして、とても意義あるものだと思っています。

 

結局、以前と結論は同じようなことになってしまいました。

途中から何を言いたかったのか分からなくなってしまった感もありますが、今回はここまでにしたいと思います。

次回も、どうかよろしくお願いします。

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今日の"まるしゃん” 最近"せなくん”を女の子だと思いこんでいるようです(¯―¯٥)

 

コミュニケーション技法ってどうするの❓

 こんにちは、久しぶりになりましたが、せなパパです。

突然ですが、この私のブログ「mrskun‘s blog」の「mrs」って私の愛犬、「まる」、「りりぃ」、「せな」のアルファベットの頭文字だってこと、知ってました?

実は、そうだったんです。

それから、前回の記事、ちょっと長すぎましたね。

確か7,000字超えてましたもんね。

長いと、読むのに疲れるでしょうから、これからは、せいぜいチャチャっと4,000~5,000字くらいに抑えるように努力しますね。

ところで、今回、「コミュニケーション技法」について、お話ししていこうと思うのですが、以前に、このテーマを扱うとお話ししていたので、やはりせざるを得ないだろうなって感じです。

私も実は、そんなに上手くできるというわけではないんですよね(¯―¯٥)。

 

そんなこんなで、始めますね。

まず、以前「傾聴ってなんのこと?」のところでも触れましたが、質問の技法として、「はい」や「いいえ」のように一言で答えられる「閉じられた質問(Closed Question)」と「どうやって」や「なぜ」のように、その人にしか答えられない考えや状態を尋ねる「開かれた質問(Open Question)」があります(「いつ」「どこで」など、中間的な質問として、Neutral Questionというのもあります)。

開かれた質問(Open Question)は、相手からより詳しい情報を聞き出したい時には適していますが、得られる情報は少なくなりますが、障害などにより情報を整理したり考えることが苦手であるとか、発語が難しい相手への質問としては適していないといえます。

むしろ、「閉じられた質問(Closed Question)」の方が答えやすく、情報も得やすいでしょう。

 

相手を納得させたり同意を得る時の技法としては、「焦点化」「明確化」「直面化」などがあります。

「焦点化」とは、相手の話す内容を簡潔にまとめ、ポイントをとらえて質問を投げ返す技法です。

「相手のニーズを把握して、質問を投げ返す」ということもできます。

たとえば、現在住んでいる住居からの引っ越しを決めて、次はどこに引っ越すのかを迷っている人がいたとします。

その人は、もう引っ越す決心をしているのですから、現在の住居に対して「どこが不満なのか」などを尋ねても、焦点がズレていることになるのです。

「次はどういうところに住みたいのか」に焦点を当てて、尋ねる必要があります。

これが、「焦点化」ということになります。

次に、「明確化」ですが、これは、相手の話す内容が曖昧(あいまい)だったり、まとまりがなかったりする時に、相手が伝えようとしていることを質問により確かめる技法です。

「それは、~ということですか?」のように、相手の話を整理して代弁しながら確認することになります。

そして、「直面化」ですが、これは、相手が自分自身の感情や言動を見つめ直すきっかけをつくるために質問を投げかける技法です。

たとえば、「簡潔に話せるようになりたい」と相談してくる相手がいたとします。(ん、私のこと?(¯―¯٥))

その相手が回りくどい言い方で、その相談内容を説明していた場合、「今、回りくどい言い方になっていませんか?」などと指摘し、ただ相手の話を受容するだけでなく、今現在やある時点で起こったことを伝えて共有することです。

ただこれは、相当な「信頼関係(ラポール)」が築けていないと、相手に不信感を与えることになりますから慎重に行う必要がありますね。

「信頼関係」のことを「ラポール」とも言い、「信頼関係を構築する」ことを「ラポールを形成する」と言うこともあります。

 

相談や助言、指導をする時の技法は、以前「受容ってどうするの?」のところで触れた「バイスティックの7つの原則」を参考にされると良いと思います。

 

コミュニケーションには、対人距離というものがあります。

一般的に、人との距離は、実際の距離(物理的距離)と心の距離(心理的距離)は密接に関係しているといえます。

「信頼関係」がしっかりと築けていると、話すときの距離も近くなりやすいということです。

相手との距離を遠く保っていると、心理的距離も遠くなり、信頼感も与えにくくなると思われますが、近すぎても相手を緊張させたり不快感を与えることがあります。

お互いの「信頼関係」がどの程度構築されているのかを考えて、相手との適切な距離を保つことが大事なようです。

相手と話す時の位置関係において、「直角法」「対面法」「並列法」があります。

「直角法」は、相手とテーブルの角をはさんで斜めに座る方法です。

この方法を取ると、お互いの視線がぶつかりにくく、圧迫感がやわらぎ、会話しやすくなります。

「対面法」は、相手と向かい合うようにして座る方法です。

この方法では、お互いの視線がぶつかり合い、圧迫感が強まるので、花瓶などをテーブルの上に置いて、視線が自然にそちらに向くようにすると良いと思われます。

「並列法」は、横長のテーブルなどに、相手と横並びに座る方法です。

この方法では、お互いの視線が交わらないため、長時間の面談に適しているといえます。

 

また、コミュニケーションにより「信頼関係」を築く方法に「自己開示」があります。

「自己開示」とは、「自分自身に関する情報を、自分の意思のもと、特定の他者に言語により伝えること」です。

もっと言えば、「他人に自分のことをさらけ出す」ことです。

相手と相互に「自己開示」を行うことで、お互いの理解が深まり、良好な人間関係を築くことにつながるといえます。

しかし、この「自己開示」も適度に行うことが大事です。

いきなり自分のことばかり話しても「なに、この人 !?」ってことになりかねません。

実は、私にはこの傾向があるんですよね。

相手が自身のことを話しやすいようにと思って、つい自分のことばかり話して、相手のことをほとんど聞き出せずに終わってしまうみたいな‥‥‥(¯―¯٥)。

「自分のことばかり話して、私のことは聞いてくれない」なんて言われないように気をつけましょうね。

このように、自分のことを知ることも必要ですね、これを「自己覚知」と言います。

また、「自己開示」と混同しやすい言葉に、「自己呈示」というものがあります。

「自己呈示」とは、「他人に自分のことをより良くみせようとアピール(呈示)する」ことです。

くれぐれも「自己開示」をしようとして「自己呈示」にならないように気をつけましょうね。

これでは逆に相手に不信感を与えてしまうかもしれませんもんね。

 

「自己開示」に関する考え方で「ジョハリの窓」というものがあります。

これは、自分や他人が知っている部分と知らない部分を組み合わせて、4つの窓に分類したものです。

この4つの窓とは、自分は知っていて、他人も知っている「開かれた窓(開放部分)」、自分は知っているが、他人は知らない「隠された窓(隠蔽[いんぺい]部分)」、自分は知らないが、他人は知っている「気づかない窓(盲点部分)」、自分は知らないし、他人も知らない「閉ざされた窓(未知部分)」となります。

「隠された窓(隠蔽部分)」について相手に話すことで、「開かれた窓(開放部分)」は大きくなり、また、「気づかない窓(盲点部分)」について相手から話してもらうことでも「開かれた窓(開放部分)」は大きくなっていきます。

お互いの「開かれた窓(開放部分)」が大きくなることで、「信頼関係」も大きくなるということでしょうか。

また、「閉ざされた窓(未知部分)」は、これからの大きな可能性を秘めているといえますね。

 

「自己開示」を行う時に気をつけないといけないことに「バウンダリー」というものがあります。

バウンダリー」は、いろいろな意味を含んでいますが、かんたんに言うと「自分と他者とを区別する『境界線』のこと」です。

ここでは、「自分のプライベートをどこまで明かすか」ということや、「自分はどこまで相手に対してやってあげられるか」という「境界線」のことを言います。

自分のプライベートなことにまで及ぶことが、より信頼関係や人間関係を良くすることにつながるかもしれませんが、それにも限度があると思います。

それが、仕事上でのことなら、なおさらだと思います。

利用者さんや患者さんに自分の住所や電話番号を教えてしまうと大変なことになってしまうかもしれませんし、プライベートで会うなんてことも避けた方が良いと思います。

夜中にまで電話がかかってきたり、ストーカー被害にあったり、いろんなトラブルの原因にもなりますもんね。

 

アサーション」という考え方も大事だと思います。

アサーション」とは、「自分も相手も大事にして、主張はしっかりと行うものの、相手を傷つけず、自分の意思や気持ちを率直に、その場にふさわしい方法で述べること」です。

アサーション」には、その考え方の土台、基本となる、主に4つの「アサーティブ・マインド」というものがあります。

それは、「自分の気持ちに『正直・誠実』であること」、「自分と相手は等しく『対等』である、尊厳のある人間であることを意識すること」、「自分の意見や主張をまっすぐに伝える(『率直』である)こと」、「自分の意見をしっかりと伝えた結果をきちんと受け入れる、結果に責任をもつ(『自己責任』)こと」です。

「自己主張」に似ていますが、ちょっと違うというか、「自己主張」の仕方と言うべきでしょうか、とにかく難しいですよね、私も苦手です(¯―¯٥)。

 

今度は主に相手の話を聞く場合ですが、相手の話に対して関心を示していることを伝える身体面の動作による技法で、G.イーガンという人が提唱した「SOLER」という考え方が有名です。

「SOLER」とは、それぞれの姿勢や動作を表す言葉のアルファベットの頭文字です。

S(Squarely)は、相手とまっすぐに向き合うことで、「対面する」(位置関係ではなくて態度だとする説もあります)、全身が見える適切な距離(手が触れる程度)を保つことです。

O(Open)は、開いた姿勢で、腕や足を組まず、耳を傾けることです。

L(Lean)は、相手に少し身体を傾けることで、少し前かがみになり、反り返らず、話の展開によって傾きを変え、直立不動にならないことです。

E(Eye Contact)は、適切に視線を合わせることで、視線の方向は見下さず、のぞき込まず、とがめるような批判するような視線を送らず、じっと見つめ過ぎないように、適度に視線をそらすことです。

R(Relaxed)は、文字通りリラックスして話を聞くことで、落ち着いて、自分の緊張を相手に伝えず、相手の緊張を受け止め、くだけ過ぎず、節度ある態度で接することです。

慣れない人とのコミュニケーションがうまくいかない時、自分の「SOLER」を見つめ直すと、相手の反応が変わってくるかもしれませんね。😁

 

あと、相手に質問をする時、たとえば、「お元気ですか?」や「大丈夫ですか?」という場合、その前に「~さん」とつけると、だいぶ印象が違ってくるようです。

「~さん、お元気ですか?」や「~さん、大丈夫ですか?」みたいな感じです。

意外と効果があるかもしれませんよ。

 

今回は、ここまでにします。

ほんと、コミュニケーション、得意になりたいもんですね。

ちょうど良いくらいの文字数になりましたかね?

ではまた、次回もよろしくお願いします。

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今日の"せなくん” 散歩中、石を食べるのでアヒルさんになりました。

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“せなくん” ちょっとかわいそうなので、すぐにくちばしは外しました。

 

精神疾患と精神病ってどう違うの??(¯―¯٥)

 こんにちは、せなパパです。

よく「精神病」って言葉を聞くことがあると思うのですが、精神科の病気にもいろいろあります。

総称して「精神疾患」と言ったりしますが、「精神病」とどう違うのでしょうか?

今回は、「精神病」と「精神疾患」の違いなどについて考えていきたいと思います。

 

まず、「精神疾患」は、精神科の病気を総称したものと捉えられますが、脳の障害や損傷などによる働きの変化が原因で、感情や行動に著しい偏り(かたより)が見られる状態です。

精神障害」と同じような意味合いで使われることも多いですね。

精神疾患」は、次の3つのパターンに分けられます。

まず1つめに「『外因性』精神疾患精神障害)」ですが、これは、脳挫傷などの外傷や感染症などの症状性の疾患、薬物などの影響で、脳神経の働きが阻害され、精神症状が見られるものです。

例として、認知症高次脳機能障害、肝臓障害や代謝障害によるもの、アルコール依存症や薬物依存症などがあげられます。

2つめに「『内因性』精神疾患精神障害)」ですが、これは、原因がはっきりしないものの、何か生物学的、身体的な基盤があって発症し、精神症状が見られるものです。

例として、統合失調症気分障害うつ病双極性障害)(「気分障害」はかつて「感情障害」と呼ばれていましたが、「感情」は何らかの「対象」に対して抱くもので、そういった「対象」がなくても症状が起こることから「気分障害」に改められました)などがあげられます。

そして3つめが、「『心因性精神疾患精神障害)」になるのですが、これは、心理的ストレス、環境的ストレスが原因で精神症状が見られるものです。

例として、急性ストレス障害心的外傷後ストレス障害PTSD)(PTSDとBPSDは似てますけど混同しないでくださいね、BPSDは認知症の周辺症状、行動・心理症状のことです)などのストレス反応、適応障害や心気症などの神経症心身症などがあげられます。

また、「精神病」は、よく「心の病」などと言われることもありますが、これで考えると3つめの「心因性精神疾患精神障害)」が、最も「心の病」といえる気がします。

しかし、最近の医学の研究では、これまでストレスが原因と考えられてきた「精神疾患」にも、脳の形態や機能異常を示唆する証拠が見つかりつつあるそうです。

そして、「心の病」という表現は、「心がけの問題」であるとの誤解を招くおそれがあるとして、「脳の病気」と表現することが適切とされています。

それでも私は、「脳の病気」とするよりは、「心の病」と言った方が、ナンダカ表現がやわらかい気がして好きですね、皆さんはどう思われますか?

 

続きまして、「精神病」について、考えていきたいと思います。

世界140カ国以上で展開する製薬会社のMSDが、社会貢献事業として約120年にわたり提供している医学事典である「MSDマニュアル」によりますと、

「精神病」とは、「妄想、幻覚、まとまりのない思考発語、現実との接触の喪失を示唆する奇異で不適切な行動(緊張病を含む)などの一連の症状を指す」とあります。

幻覚や妄想などを症状とする疾患群は、アメリカ精神医学会(APA)の「DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル第5版)」において「統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群」という項目に分類されることが多いので、そこに分類されている疾患について見てみましょう。(MSDとかDSMとかややこしいですよね(¯―¯٥))

ただ、「精神病」は、「双極性障害躁うつ病)」など、他の疾患の意味として使われることもあるそうです。

そういえば以前、日本の3大精神病として「統合失調症」、「双極性障害」、「てんかん」があがっていた記憶があります。

しかし、「てんかん」は、日本以外の国では「精神疾患」ではなく、「神経疾患」のなかに入っているところも多いとも聞きますね。

う~ん、「精神病」って実は曖昧(あいまい)な気がしますね、はっきりとした決まりはなく、おおまかに、大体「そんなところ」ということですかね。

話がそれましたが、めげずに、「精神病」とはどういったものがあるのか、いくつか見てみましょう。

まずは、「統合失調症」ですね。

これは、思考や行動、感情などを1つの目的に沿って統合する脳の力が低下したために幻覚や妄想、まとまりのない思考や行動などが現れる症状です(この、「まとまり」のない状態から、過去には「分裂病」と呼ばれていました)。

急性期には、妄想や幻覚を主とする「陽性症状(発症前にはなかった現象が現れる症状)」、慢性期には、感情の乏しさや意欲の低下などが起こる「陰性症状(発症前にはあったものが低下したり無くなったりする症状)」が現れます。

次に、「統合失調感情障害」です。

これは、「統合失調症」の症状に加え、「気分障害」の症状も見られるものです。

そして、「精神病性障害」です。

これは、他の「精神疾患」によらない妄想や幻覚、まとまりのない思考や行動などの「陽性症状」や「陰性症状」がある状態です。(ややこしいですね(¯―¯٥))

精神病性障害」をいくつかあげますね。

○急激に発症した幻覚や妄想といった症状の持続期間が1日以上1か月未満で、激しい感情の揺れ動きや混乱状態を伴うものの最終的に発症前の状態にまで回復する「短期精神病性障害」(心理的な作用として起こる妄想や幻覚はこれに含まれる)。

○薬物や医薬品の使用、毒物への接触の最中や直後に妄想や幻覚が現れる「物質・医薬品誘発性精神病性障害」。

○妄想や幻覚が他の疾患(精神疾患以外)の症状として起こっていると判断される状態の「医学的疾患による精神病性障害」。

○他の「精神疾患」や薬物などが原因ではない1つ以上の妄想が1か月以上持続して生じている状態の「妄想性障害」。

なお、「妄想性障害」の主な3つの妄想の内容を以下に記します。

・ある人物が自分に対して恋愛感情をもっているという妄想である「被愛型」。

・自分が卓越した才能や見識などをもっていると確信している妄想である「誇大型」。

・配偶者や恋人が不貞をはたらいているという妄想である「嫉妬型」。

どうでしょうか。

結局、「精神病」とは、「統合失調症」もしくは「統合失調症以外の精神疾患」を原因としない「妄想」や「幻覚」を伴う症状(「双極性障害」などを含むこともある)ということができるかもしれません。

 

「ちょっと待った!」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

確か、「MSDマニュアル」では少し違ったことを言っていたような‥‥‥。

「精神病」ではないかな?と思われるような「妄想」っていろいろありますよね。

上に記したものも含めて妄想にはどんなものがあるのか、もう少し見てみましょうか。

・「物盗られ妄想」は、金品などを他者に盗られたと確信し主張する妄想です。

記銘力障害が原因で起こることが多く、特に「認知症」に多いとされています(なぜか日本人の認知症患者さんに多いそうです)。

・「被害妄想」は、他者から被害を受けていると確信し主張する妄想です。

うつ病」や「統合失調症」に多く、「認知症」でも見られます。

・「貧困妄想」は、実際より経済的に困窮していると確信し訴える妄想です。

うつ病」で多く見られます。

・「罪業妄想」は、自分が行ったことは罪ではないかとか、根拠なく自分は罪深いと思い込んでしまう妄想です。

症状が進行すると、自分の存在を否定したり、幻覚を見てしまうことがあるといいます。

うつ病」で多く見られます。

・「心気妄想」は、実際は健康でも、死んでしまうような思い病気にかかっていると確信している妄想です。

うつ病」で多く見られます。(「貧困妄想」「罪業妄想」「心気妄想」は「微小妄想」と呼ばれ、「うつ病」の代名詞のようになっています)

・「誇大妄想」は、上記した「誇大型」の妄想です。

「妄想性障害」や「統合失調症」、「双極性障害」の「躁状態」に多いです。

・「奇異な妄想」は、世界的な諜報機関によって監視されているとか、宇宙人に手術をされたなどといった荒唐無稽な内容の妄想です。

統合失調症」で多く見られますが、「認知症」や「器質性脳疾患」でも見られます。

・「関係妄想」は、テレビやインターネット上での言葉や出来事、他者の行動が自分に関連がある、または、自分にとって重大な意味があると確信している妄想です。(「心気妄想」や「関係妄想」を「身体妄想」と呼ぶこともあります)

統合失調症」で多く見られます。

・「妄想性人物誤認」は、よく知っている人が瓜二つの別人に取って代わられているというようなものや自分とそっくりの分身がいるといった妄想のことです。

統合失調症」に多いです。

・「嫉妬妄想」は、上記した「嫉妬型」の妄想です。

なぜか「アルコール依存症」の男性に多いです。

これ以外にもまだまだ「たくさん」あります。

「妄想」だけをテーマにして記事が書けそうですね。

このように、いろんな「精神疾患」で「妄想」は見られます。

 

「幻覚」についても少し考えてみましょう。

統合失調症」における「幻覚」は「幻聴」が多いのですけど、「幻覚」には「幻視」もあります。

「幻視」と「錯覚(錯視)」は混同しやすいかもしれませんが、おおまかに「幻視」は「実際にはないものが見える」現象で、「錯覚(錯視)」は「実際にあるものが、実際とは違ったものに見える」現象です。

麻薬などの薬物の使用でも「幻聴」や「幻視」といった「幻覚」は起こるといいます。

認知症」でも「幻覚」が見られることがあります。

特に「レビー小体型認知症」では、「幻視」が顕著に現れます。

アルコール依存症」の離脱症状でも、実際にはいない小動物などが見えることが多い「幻視」は起こることがありますが、この場合、恐怖や気持ち悪さを感じることがあるといいますが、「レビー小体型認知症」での「幻視」では、なぜか恐怖を感じないそうです。

また、「アルコール依存症」の離脱症状に「振戦せん妄」というものがあります。

「振戦せん妄」は、長期間の飲酒歴のある重度のアルコール依存症者が、飲酒を中断または減量してから2~4日目頃に出現し、通常3日~4日で回復する、身体的な合併症がある場合に起こりやすいとされている症状です。

主な症状の内容は、「頻脈や発熱」「発汗などの顕著な自律神経機能亢進」「全身性の粗大な振戦(震え)」「意識変容」「精神運動興奮」「失見当識(時間や場所、人の見当がつかなくなる)」「幻覚」などがあげられます。

この場合の「幻覚」ですが、先ほどもお話ししたと思いますが、「幻覚」のなかでも「幻視」が多く、実際には存在しない小動物や虫、小人などが多数見えたりします。

「振戦せん妄」って、もうほとんど「精神病」のような症状に思えませんか?

しかし、「振戦せん妄」は、アルコールの摂取中や摂取直後に起こるものではなく、また、「アルコール依存症」という「精神疾患」に由来するものですが、離脱症状として起こるもので、しかも、病名ではなくて状態を指すものですから、「精神病」とは言えないと思います。

まあ、「アルコール依存症」などは、それ自体は「精神病」ではありませんが、「精神病」を引き起こす要因にはなりえるかもしれませんね。

「ウェルニッケ脳症」からの「コルサコフ精神病」や「アルコール性認知症(ウェルニッケ・コルサコフ症候群と同じという意見もある)」なんてのもありますもんね。

「ウェルニッケ脳症」とは、「チアミンビタミンB1)欠乏(脚気[かっけ]を引き起こす)による錯乱、眼振、部分的眼筋麻痺および運動失調の急性発症を特徴とする」ものです。

コルサコフ精神病」とは、「持続的なウェルニッケ脳症の晩期合併症で、逆行性および前行性健忘(最近の出来事の記憶がなくなり、遠い過去の出来事の記憶に頼る)の記憶障害、錯乱、行動変化(自発性、自主性の低下)を引き起こす」ものです。

 

これはどうなのかな?というのに、「妄想性パーソナリティ障害」というのがあります。

パラノイア」とか「偏執病(症)」とか聞いたことありませんか?

それも、「妄想性パーソナリティ障害」の一種です。

「妄想性パーソナリティ障害」とは、「他者の動機を悪意のあるものと解釈し、他者に対する根拠のない不信および疑念の広汎(範囲の広い)なパターンを特徴とする」ものです。

自分を神か、運命などにより選ばれた、特別・特殊な人間であると信じていたりすることもあるようです(誇大性)。

これは、「パーソナリティ障害」の一種ですので、「認知行動療法」などによる治療や支援の対象にはなりますが、脳の器質障害や機能障害といった、いわゆる「病気」と言えるのかは疑問です。

 

ところで、MSDマニュアルでの「精神病」の定義のところで、(緊張病を含む)とありましたよね。

では、「緊張病」ってなんでしょうか?

私の以前の記事「発達障害って‥‥‥?2(ADHD)」のところでも少しだけ触れましたが、「緊張病」は「カタトニア」とも言って、「統合失調症」や抗精神病薬などの副作用である「悪性症候群」、「せん妄」、「薬物の離脱症状」などで見られます。(じゃあ、やっぱり「振戦せん妄」は「精神病」かな?)

症状は、「本人が選んだ姿勢を維持しようとする」または「他者から取らされた姿勢を本人が維持しようとする」というようなものです。

なお、後者を「カタレプシー」とも言います。

 

ここで、法律における「精神障がい者」の定義と「精神病」との関係について、どうなっているのか少し見てみましょう。

障害者基本法」では、「精神障がい者」を「精神障害発達障害を含む)がある者であって、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」としています。

精神保健福祉法」では、「精神障がい者」を「統合失調症、精神作用物質による急性中毒又はその依存症、知的障害、精神病質その他の精神疾患を有する者」としています。

「障害者総合支援法」では、支援の対象としての「精神障がい者」を「精神保健福祉法」で規定する「精神障がい者」のうち18歳以上の者(発達障害のある人を含む)としています。

障害者基本法」では、「障害」に「社会モデル」を取り入れた考え方をしているのがわかりますね。

かんたんに言うと、「社会的障壁」という言葉を使って、「障がい者」にとって「障害」となる物は「社会」の側にあるということを認めているんですね(「社会的障壁」=障がい者が生きていく、または、生活していくうえでの社会にある障害となっているもの)。

障がい者」の「がい」を「害」と書かないのも、「障がい者」自身が「障害になる人」「害のある人」であるとの誤解をまねかないためです。

まあ、なにはともかく、これらの「法律」によると「精神病」を抱えている人だけを「精神障がい者」と言うわけではないことが分かりますね。(認知症者やアルコール依存症者なども「精神障害者」に含まれることになります)

 

次は、「薬」で考えてみましょう。

精神科の「薬」には、「向精神薬」と「抗精神病薬」がありますね(これも紛らわしいですね)。

向精神薬」というのは、「中枢神経系に作用し、生物の精神活動に何らかの影響を与える薬物の総称」です。

ですから、一般的には鎮静剤や精神安定剤抗不安剤睡眠導入剤などの睡眠薬(催眠薬)といった精神科の薬ですよね。

それと、鎮痛剤やタバコやアルコール、麻薬なども含まれるそうです。

では、「抗精神病薬」とはなんでしょうか?

抗精神病薬」とは、「『向精神薬』の一種で、幻覚や妄想、作為体験などの精神病症状に対して効果を有する薬物の総称」のことです。

主に「統合失調症」や「双極性障害」などの「精神疾患」の治療を目的として用いられます。

しかし、「薬」は「病気」に対して処方されるというよりは、「症状」に対して処方されるものですから、一般的に「統合失調症」の「薬」とされているものが、自傷行為や他害行動の見られる「強度行動障害」がある「認知症」や「発達障害」などに対して処方されることも多いです。

ですから、「抗精神病薬」が「精神病」に対してだけ処方されるわけでもないんですね。

 

精神科病院」も以前は、「精神病院」と呼ばれていました。

でも「精神病院」と言うと「精神病」だけを扱っている「病院」と思われがちということで、誤解のないように「精神科病院」と言うようになったということです。

実際には、精神科全般を扱っていますもんね。

 

で結局、「精神病」ってなんなんですかね?

結局は、はっきりと「これが『精神病』です」という分類はないんですよね。

皆さんはどう思われましたか?

私は、やっぱり、「精神病」とは、「DSM-5」の「統合失調症スペクトラム障害および他の精神病性障害群」や「双極性障害」、「うつ病(?)」、「認知症(?)」などを指す(?)としか言いようがないような気がしますね。(?ばっかり(¯―¯٥))

 

すみません、ナンダカとりとめのない話になってしまいましたね。

はっきりと分かる方がいらしたら教えて下さい。

今度、いつか「妄想」をテーマにしてお話しをいきたいと思いますね。

いくつか支援?の体験談もありますし‥‥‥。

ということで、今回はここまでにしたいと思います。

これにこりずに、次回もよろしくお願いします。

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今日の”りりたん”😁❣ 「りりたんは見た!」引きこもってます(¯―¯٥)😁

 

コーヒーブレイク😁3

 こんにちは、せなパパです。

今回は番外編です。

いきなりですが、少し自分のこれまでの生き方を考える機会があって、私のその時々のライフステージとまではいきませんが、ライフコースの中で出会ったり励まされたりした有名人等の「名言」を振り返ってみたいなと思います。

 

最初の2つの「名言」は、私が福祉の道に進む前、一般のサラリーマンとして勤めていた会社で、職業特有と思われるのアレルギーによる肺炎や目の病気で、仕事を続けられるかどうか悩んでいる時に出会いました(今はもう大丈夫です)。

 

「虹を見たければ、ちょっとやそっとの雨は我慢しなくちゃ。」 

                                                                                        ドリー・パートン

 

「悲しみと苦痛は、やがて人のために尽くすという美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。

 心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう。」 ヘレン・ケラー

 

これらの「名言」は、高熱が続き、激しく続く咳により肋骨が折れることもあり、それが治まっても、次には目を失明しかけるという境遇に耐える強さを与えてくれました。

今後、私が福祉の道に進むことを暗示していたのでしょうか。

 

次の「名言」は、結局、私がそれまで勤めていた会社を、病気のために退職することになり、将来に絶望している時に出会い、そして、励まされたものです。

 

「幸せのドアが一つ閉まった時、もう一つ別のドアが開く。

 しかし、大抵の人は閉まったドアを見ている

 だから、開いているドアが見えないのだ。」 ヘレン・ケラー

 

この「名言」に出会えたことが、私が以前から関心の深かった福祉への道を考えるきっかけになりました。

後の「リカバリー」という言葉へ心頭するきっかけにもなった「名言」です。

 

次の「名言」は、私が福祉の道に進む決心をし、社会福祉士精神保健福祉士介護福祉士の資格取得を目標にかかげた時に出会い、励まされた「名言」です。

 

「神様は私たちに、成功してほしいなんて思っていません。

ただ、挑戦することを望んでいるだけよ。」 マザーテレサ

 

私の本当に節目の時だったんですよね。

それまで、勤めていた会社のための勉強しかしてこなかった私が、これからどうやって生きていこうかと考え、資格を取得して福祉の道に進もうと決意する勇気をくれた「名言」でした。

 

次は、私が介護職員実務者研修修了という資格を取得して、介護士をしながら社会福祉士の受験資格を得ようとしていた時に出会い励まされた「名言」です。

 

「努力は人が見ていないところでするものだ。

 努力を積み重ねると人に見えるほどの結果が出る。」 長嶋茂雄

 

本当に社会福祉士が取得できるのか不安と戦いながら、仕事をしていた時期でした。

させられているんじゃなく、自分でやろうと決めたことだからと、勉強をしていることを誰に話すでもなく、仕事が終わり家に帰ってから、ひたすら勉強していました。

この「名言」は、その時にとても励みなりました。

 

次の「名言」には、私が社会福祉士を取得して一段落した後、精神保健福祉士を取得しようと勉強を始めた時に出会い、とても勇気づけられました。

 

「努力して結果が出ると、自信になる。

 努力せず結果が出ると、傲り(おごり)になる。

 努力せず結果も出ないと、後悔が残る。

 努力して結果が出ないとしても、経験が残る。」 作者不詳

 

この「名言」のおかげで、「とにかく努力さえすれば、結果はどうあれ何かと報われる」と、一度は満たされた資格取得への情熱を再び奮い起こすことができました。

 

次の「名言」は、私が精神保健福祉士の勉強をしている時、「リカバリー」という言葉に出会い、その「リカバリー」という言葉を考えるうえで、とても心に残ったものです。

 

「『できること』が増えるより、『楽しめること』が増えるのが、良い人生」 

                            斎藤茂太

 

この「名言」に出会ったからでしょうか、私が福祉を考えるうえで、この「リカバリー」は、とても大事で、切っても切れないものになりました。

 

次の「名言」は、私が精神保健福祉士を取得し、少し自信がついてきた頃に、児童福祉の壁にぶつかり、悩んでいる時に出会い励まされたものです。

 

「どうして自分を責めるんですか?

 他人がちゃんと必要な時に責めてくれるんだからいいじゃないですか。」 

                         アインシュタイン

 

誰でも責められると良い気はしませんよね?

落ち込んだり、腹が立ったりしますよね?

しかし、この「名言」のおかげで少し謙虚な気持ちをもつことができました。

 

次は、苦手意識をもっていた児童福祉分野において、この「名言」に出会うことで、保育士を取得しようと勇気づけられたものです。

 

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。」 

                         アインシュタイン

 

私がやはり児童福祉に携わっている時に、私のこれまでの常識が通用せず、悩んでいる時に、気持ちを切り替えさせてくれて保育士を取得しようと決意させてくれた「名言」でした。

 

次の「名言」は、保育士を取得したからといって児童福祉において必ずしも思うような成果が出せず、イライラがつのり、子どもたちへの自分の愛情に疑心暗鬼になっていた時に出会ったものです。

 

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」 マザーテレサ

 

この「名言」が、思うように支援の成果がでない子どもたちと距離を置きがちだった私に、再びその子どもたちと関わる勇気を与えてくれました。

 

次の「名言」は、念願の介護福祉士を取得しようと勉強し、福祉のテーマである「自立」とは何なのかを再び考える時に、大変影響を受けたものです。

 

「生きるというのは人に何かをしてもらうこと。

 生きていくということはそれを返していくこと。」 金八先生

 

この「名言」は、「自立」というものの「本質」をついていると感じます。

人は一人では生きていけないのです。

「自立」とは、社会というもののなかで、頼り頼られの関係でそれぞれの役割を持って生きていくこと。

そのための「自己決定」であり、「できることを増やすこと」は、その「自己決定」の選択肢を増やすことであると考えます。

 

「自立」とは何かを考えるうえで心に残った「名言」は、ツイッター上にもありました。

 

「大人になるということは『誰にも頼らず自分の力だけで生きていける』ことなのでしょうか?

 『私の人生にあなたが必要なんです』というのは、素晴らしいことじゃないでしょうか。」 ツイッターから

 

う~ん、心に響きますね。

頼り頼らずの関係を作らず、「誰にも頼らず自分の力だけで生きていく」ことは、「自立」ではなくて、むしろ「孤立」に近いと私は考えています。

「何を誰に頼り、何を自分でする」かを自分で決めること、「大切な人を見つける」ことは、大事な「自己決定」であり、それが「自立」だと私は思います。

 

次の2つの「名言」は、やはり介護福祉士の勉強をしている時に、「リカバリー」もそうですが、「QOL」=「幸せ」というものを考えるうえで、とても参考になったものです。

 

「幸せは目標ではないし目標であってもならない。

 そもそも目標であることもできません。

 幸せとは結果にすぎない。」 ヴィクトール・フランクル

 

「もし今持っているものを全て失って、それを取り戻すことができたらどんなに幸せか少し考えてみなさい。」 ある賢人の言葉 

 

「幸せ」ってものすごく抽象的で主体的な言葉で、具体的でも客観的なものでもないんですよね。

たとえば、「幸せ」になるために「お金持ちになりたい」とか目標を立てても、その目標が達成されたら、さらなる目標が出てくるかもしれませんし、それによるトラブルが出てくるかもしれません。

最終的にその目標が満たされなかったり、「お金持ちになんかならなければよかった」と思うかもしれません。

結局、何が「幸せ」かなんて、その渦中にある本人にも分からないんじゃないかと思います。

今までの自分の人生を振り返ってみて、初めて「幸せ」であったかどうかが分かるんじゃないでしょうか?

福祉とは、人の「幸せ」を追求していくことだと思うのですが、つまるところ、支援を受ける人の「幸せ」を追求する基盤を整えてあげることしかできないんだと思います。

 

次の「名言」は、念願の介護福祉士を取得し、「もう受験勉強はたくさんだ」という思いと「自己研鑽のために更に資格を取って勉強したい」という思いの両方の板挟みにある私を奮い立たせてくれているものです。

 

「スパゲティをゆでる時、時計の針は、必ず中途半端なところにある。

 きりのいいところから何かを始めようとする人は、永遠に始めることができない。」

                              中谷彰宏

 

この「名言」を思い出すことで、現在、私の向上心は維持されています。

 

次の「名言」は、今の私の生き方の指標になっています。

 

「自分らしく生きられる場所を探すのではなく、今、自分がいる場所で夢中になって生きてみましょう。

 そんな日々の積み重ねが、その人らしさを作っていくんだと思います。」 

                                                                                                           斎藤茂太

 

これが「経験」を積むということだと思います。

良いことばかりを経験しても、悪いことを乗り越える経験をしないと、学ぶもの、身につくものは少ないと信じています。

 

そして次にあげるのが、今の私の心構えになっている「名言」です。

 

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」 マザーテレサ

 

福祉職(特に有資格者)にはいくつかの義務や責務があるんですよね。

一応、以下にあげますね。

「個人の尊厳を保持し、自立した日常生活を営むことができるよう、常にその者の立場に立って、誠実に業務を行なわなければならない」といった「誠実義務」。

「信用を傷つけるような行為をしてはならない」といった「信用失墜行為の禁止」。

「正当な理由なく、業務に関して知り得た人の秘密を漏らしてはならない」といった「秘密保持義務」。

「心身の状況等に応じて、福祉サービス等が総合的かつ適切に提供されるよう、福祉サービス関係者等との連携を保たなければならない」といった「連携」。

「環境の変化による、業務の内容の変化に適応するため、知識および技能の向上に務めなければならない」といった「資質向上の責務」。

私は、これらの義務や責務を果たすためということもあって、この「名言」を自分への「戒め」として心に刻んでいるつもりです。

 

あと、誰ので正確にはどういう「名言」だったのか分からなくなってしまったのですが、

 

「人に対応する時、理論的に正しいと思う対応より、自分の心に問うてみて、良いと思う対応をした方が良い。

 大抵、その方がうまくいく。」

 

というような内容の「名言」があったのを覚えています。

この内容の「名言」、誰の「名言」で正しくはどういったものだったのか知っている方がいらしたら教えてくれるとうれしいです。

また、この「名言」と同じような意味合いで私は捉えているのですが、

 

「頭ではなく、心に従ってください。」 ダイアナ妃

 

というものもあります。

実際、利用者さんと接してみて「案外そういうものだな」なんて思うことも多いです。

利用者さんの障害特性やアセスメントした内容など、知識がなければ寄り添えないことが多いのも確かですが、気持ちや心というものは伝わるものでもありますもんね。

福祉に携わる人間として、そういう部分は大切にしていきたいと考えています。

 

そして、最後にアルコール依存症を抱えた人から聞いた「名言」ですが、ツイッター上にも同じようなものがありましたので、そちらをご紹介させていただきます。

 

「酒だけが友達だと思っていた。

 唯一の友達『酒』とお別れしたら、不思議と出会いが増えた。

 人間の友達が増えた。」 ツイッターから

 

私は、専門的にアルコール依存症を抱えた人の支援を行っているわけではありませんが、断酒会やAAといった自助グループに通っておられる方たちとの交流があります。

是非ともアルコール依存症を抱える人の「リカバリー」の過程において、こういった体験をしていただきたいと願っています。

 

これらは、私がいろんな場面で出会った「名言」の一部です。

どうでしょう、人にはそれぞれ自分の各ライフステージにおいて、様々な気持ちの変化や目標の変化が求められることがあると思います。

そんな時に、いろんな「名言」に出会うことで、その人の人生に大きな影響を与えることがあるかもしれません。

また、「名言」が、新たな目標をもつきっかけになるかもしれません。

あなたも、その時々の自分に合う「名言」を見つけてみませんか?

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今日の“りりたん”と”せなくん”😁 一緒に遊んでます❣

 

発達障害って‥‥‥?3(LD)

 こんにちは、せなパパです。

今回も私のお話しに付き合っていただくのですが、私のブログはちょくちょく書き足したりしてますので、記事を更新してから2~3日してから読むか読み直しをしてもらえると少し分かりやすくなっているかもしれません😁。

えっと、前回、前々回と発達障害についてお話ししてきましたが、今回は第3弾として「学習障害(以下LD)」についてお話ししていきたいと思います。

ですが実は、私、あまりLDについては詳しくないんですよね。

なので、いろいろ調べながらお話ししたいと思います。

まず、「学習障害」は「限局性学習症」とも呼ばれ、教育的な立場でのLD(Learning Disabilities)と医学的な立場でのLD(Learning Disorders)の2つの考え方があるようです。

最近では、LDではない子どもとは異なった学習アプローチをとるという点からLearning Differences(学び方の違い)と呼ぶ人もいるようです。

ここで、教育的な立場でのDisabilityと医学的な立場でのDisorderの違いについて調べてみます。

まず、Disabilityは、「(身体・精神の)障害」を意味し、そこから生じる日常の不便さなどを「障害」と位置づけているようです。

また、「身体障害」の場合に多く使われ、「能力を欠く」という意味があり、「不可能」というニュアンスを持つようです。

次にDisorderは、「心身の機能障害」を意味し、本来ならできることができない、すぐにできることがしにくいということを障害と位置づけているようです。

精神障害」の場合に多く使われ、「秩序が乱れる」という意味があり、「変化の可能性」が感じられるようです。

「知的障害」の場合には、DisabilityもDisorderも両方使われるようです。

私個人的には、Disabilityが「障害」、Disorderが「病気、疾患」を意味しているように捉えています。

それでは、LDの定義ですが、「学習障害とは、基本的には、全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの特定の能力の習得と使用に著しい困難を示す、さまざまな障害を指すものである」ということらしいです。

そして、LDのタイプは、読字障害(ディスレクシア)、書字障害(ディスグラフィア)、算数障害(ディスカリキュア)の3つに分かれています。

よく「知的障害」と混同されがちかもしれませんが、「全般的な知的発達に遅れがある」ものを「知的障害」ということになるみたいですね(「知的障害」では感情的発達に遅れはありません)。

でも実際は、人によって症状の現れ方は様々だったりすると思いますし、意識しないと気づかれない場合もあるでしょうし、子どもの場合、LDと知的障害を間違えて診断されているパターンも多くある気がしないでもないですね、特に生理的知的障害の場合‥‥(¯―¯٥)。

調べてみると、このLDのうちのディスレクシアを抱えた有名人は、結構多くいるようです。

スティーヴン・スピルバーグさん、トム・クルーズさん、オーランド・ブルームさん、キーラ・ナイトレイさんらがそうみたいです。

まあ、それ以前に、私はスティーヴン・スピルバーグさんとトム・クルーズさんくらいしか知らないのですが‥‥‥(¯―¯٥)。

黒柳徹子さんも、ディスレクシアとディスカリキュアだったのでは?と告白されているそうです。

これらLDは、何らかの脳機能の障害が想定されているようですが、脳の部位や原因は特定されていないそうです。

ディスレクシアは、「見た文字を音にするのが苦手」という症状があり、文字を読むことが困難になります。

また、文字を読むことが困難だと、結果として文字を書くことにも困難を感じる場合が多くなるため、「読み書き障害」と呼ばれることもあります。

文字を読むことが困難な理由としては、文字の見え方に特徴があり、文字がぼやけたり、黒いかたまりに見えたり、逆さまに見えたり、図形のように見えたりすることがあるようです。

また、文字の形が似ている「わ」と「ね」であったり、「シ」と「ツ」であったりするものの違いを理解することが難しいようです。

小さい文字の「っ」や「ゃ」や「ょ」なども認識しづらいようです。

音韻認識の弱さから、ひらがなやカタカナの一つずつは理解できても、漢字や単語になると理解できないということもあるようです。

そして、文字を読んでいると、どこを読んでいるか分からなくなったり、単語や文節の途中で区切った読み方をしたり、飛ばし読みや適当読みするなど文章をスムーズに読むことが難しかったり、読み方に特徴があったりするといいます。

これらは、情報を伝達し処理する脳の機能がスムーズに働いていないことが原因だと考えられています。

しかし、音声にするなど、耳からの情報は理解しやすい場合が多いようです。

一方、ディスグラフィアでは、「文字が書けない」「書いてある文字を写せない」など、文字を書くことに困難がみられます。

文字が読めるにも関わらず書けない場合も含まれます(ギク!)。

この症状では、自分では文字を正確に書いているつもりなのに鏡文字になってしまうなどの現象が見られます。

また、その場の雰囲気で勝手に創った文字を書いたりすることもあるようです。

書き文字がマスや行から大きくはみ出したり、文字を書く際に余分に線や点を書いてしまう、間違った助詞を使ってしまったり、句読点などを忘れる、年齢相応の漢字を覚えられず書くことができない、誤字脱字や書き順の間違いが多い、黒板やプリントの文字が書き写せなかったり時間がかかる、などといったこともあるようです。

原因としては、脳内で身体に指示を出し、手を動かすという一連の伝達機能がうまく働いていないという説が有力なようです。文字の色のコントラストを過敏に感じ取ってしまうことでノートに向き合えない場合もあるようです。

そして、ディスカリキュアでは、数学や数式の扱いや、考えて答えにたどり着く推論が苦手という現象が見られます。

「1」「2」「3」などの基本的な数字や「+」「×」などの計算式で使う記号を認識することに困難をもっているようです。

また、数字そのものの概念であったり、規則性や推論が必要な図形の領域を認識することが苦手なようです。

視覚認知の機能も弱く、数字を揃えて書く、バランスを考える、文字間の距離感を取ることも苦手なようで、筆算の際に桁がずれることも多くなるといいます(これも計算が苦手な理由の一つ)。

こういったことから、簡単な数字、記号を理解しにくい、繰り上げや繰り下げの計算ができない、数の大きい小さいがよく分からない、文章問題が苦手で理解できない、図形やグラフが苦手、理解ができない、などということが起こってきます。

原因としては、短期記憶や空間認識に困難があることが考えられています。

計算が苦手なのは、答えを出すまでの式の過程を記憶し続けられないことや、知っていることをもとに新たに予測する推論能力が弱いせいだと思われます。

繰り上がりや繰り下がりの計算が苦手なことでは、繰り上がった数字を一時的に記憶しておくことが苦手なためのようです(前回お話ししたワーキングメモリです)。

数字の「cm」や「m」などの単位の理解も難しいのですが、それは空間認知に困難があり、左右の位置関係を把握できないためだと考えられます。

図形においては、空間認知能力の低さに加え、想像力の乏しさも関係しているようです。

ここまでお話ししてきて、これらLDに共通なことは、これらは知的機能における障害ではなくて、情報の混乱などの「認知機能における障害」であるということです。

これは、前々回の冒頭の部分でもお話ししたと思います。

LDとは、「全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する、推論するなどの特定の能力の習得と使用に著しい困難を示す」と今回の冒頭でもお話ししましたが、「特定の能力の習得と使用に著しい困難を示す」理由は「部分的な知的発達の遅れ」ではなく、基本的には「情報や脳の命令の伝達における障害」「認知機能における障害」にあるということが大事だと思います。

一見、「知的障害」と似たような症状が見られても、その原因はまったく異なるということです。

これを知っているのと知らないのとでは、支援の方法も変わってくると思いませんか?

私が以前、ある子どもに算数の問題を教えたことがあるのですが、確か、セロテープの幅と建物の高さの「単位」の違いを問う問題でした。

その問題では、具体的に、セロテープの幅の長さを3()、建物の高さを5()という具合に書いてあって()の中に「cm」なり「m」という「単位」を書き入れる答え方を求めていました。

私は定規を使って実際にセロテープの幅の長さを測って「cm」という「単位」を教えようとしました。

実際にセロテープの幅の長さを測ってみると2.5cmでした。

私は、そこで、その子どもに「cm」という「単位」の方に注目して()の中は「cm」だということに気づいてほしかったのですが、その子どもは「2.5」という「数字」の方に注目して、問題には「セロテープの長さは3()」とあったものですから、「2.5」だから「3」ではないと言い張って、私の説明に納得してくれませんでした。

「2.5」だとか「3」とかは、ここでは注目する必要はなく、()のなかの「単位」は何であるかに注目してほしかったのです。

私は、その時、その子どもの「納得いかない」という気持ちが頑な(かたくな)になってしまっていたので、その気持ちを切り替えてもらうために、他の人に事情を話して教える役目を交代してもらいました。

教える役目を交代してもらった人も、苦労して教えてやっと理解してもらえた?ようでした。

この子どもはディスカリキュアを抱えていたようですが、私はその時、そのことを理解しておらず、もし理解していれば、正解かどうかは分かりませんが、もっと違う教え方(アプローチ)をしたと思います。

あなたならどう教えますか?

こういったことが、LDではない子どもとは異なった学習アプローチをとるというLearning Differences(学び方の違い)なんでしょうね。

ところで、障害を抱える方の支援をしていると、「障害って遺伝するんですか?」なんてよく聞かれることがあります。

発達障害の場合、どのくらいの割合で遺伝するのかデータを持っていないのでよく分かりませんが、一つの遺伝子ではなく多くの遺伝子が関係していることは分かっています。

ですので、その複数の遺伝子のすべてにおいて、発達障害を抱える条件を満たすことは確率的にかなり低いと思われます。

また、遺伝により障害をかかえる割合が何倍かになったにせよ、もともとの発症率が低いのですから、発症率はそんなに高くはならないと思われます。

たとえば、発達障害ではありませんが、遺伝による統合失調症の発症率(発達障害とは先天性と後天性の違いがありますが)を見てみると、もとものの発症率が1%程度で、親に統合失調症を抱えている人がいるとその発症率は約10倍になります。

しかし、もともとの発症率が1%程度なので、遺伝による発症率は10%ほどということになります。

この10%を高いと見るか低いと見るかだということになるでしょう。

また、統合失調症の場合は、一卵性双生児であっても、兄弟の片方が統合失調症で、もう片方も統合失調症である割合は50%だということです。

私は統合失調症を抱える方から遺伝の相談をされた時には、その遺伝の心配をしておられる心境に配慮しながら、「一緒に考えてみましょう」というお声かけをして、最終的には、このように答えてきました。

ただ、発達障害の場合は先天性なので、一卵性双生児の場合は両方とも発達障害を抱えるということにはなると思います。

 

今回のテーマのLDですが、こんな感じで良いのかな?と正直不安です。

このLDというテーマ、また今度、私の宿題にしたいと思います。

これら以外にも「チック」や「吃音」なども発達障害に含まれるそうです。

それら他の発達障害も含めて私の宿題にしますね。

ということで、今回はここまでにします。

次回もまたよろしくお願いします。

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今日は“まるしゃん” 一応、吠えてます。

 

発達障害って‥‥‥?2(ADHD)

 こんにちは、せなパパです。

前回、発達障害の「自閉症スペクトラムASD)」についてお話ししましたが、今回は、その第2弾として、「注意欠陥多動性障害(注意欠如多動症)(以下ADHD)」について主にお話ししようと思います。

このADHDですが、今から思うと、私の子どもの頃によく当てはまっているきがするんですよね。

通知表にいつも「落ち着きがない」なんて書かれていたりして‥‥‥(¯―¯٥)。

皆さんのなかにも、自分にも当てはまるって方がいらっしゃるかもしれません。

実は、ADHDを含め発達障害を抱えている人の割合は、学校における子どもの教育的配慮が必要な場合において、約6.5%あるようです。

1クラス30人と考えて、クラスに1~3人は発達障害の子どもがいるという計算になります。

以前は、発達障害という概念がありませんでしたので、発達障害だと、指摘されることはありませんでしたが、今なら発達障害だと指摘されていたかもしれないな?なんて思ったりします(。・_・。)。

ところで、ADHDには、3つの主症状があるんですよね。

1つめは、「不注意」です。

具体的には、ケアレスミスをする、注意散漫である、整理整頓が苦手、忘れ物が多いなどです(´;ω;`)ウッ…。

2つめは、「多動性」です。

具体的には、いつも手足をもじもじしている、椅子にじっと座っていられない、いつもおしゃべりをしていて止まらない、静かに遊べないなどです。

そして、3つめが、「衝動性」です。

具体的には、順番をきちんと待てない、人の列に割り込む、突然怒る、相手の質問が終わらないうちに答えるなどです。

これらを、もう少し掘り下げてみますね。

「不注意」は、「短い時間に心の中に情報を保持し、同時に処理する能力」または、「短い時間に複数の情報の記憶を同時に保持する能力」というワーキングメモリ(作業記憶とも言います)が低いということができます。

たとえば、「電話をかけたい人の電話番号を一時的に記憶して、電話をかける」といったことなどが苦手ということですね。

これがあると、情報の抜けが多くなり、同時に2つ以上の作業を進めることが難しくなります。

「多動性」は、これもワーキングメモリに関わってきますが、「新しく入った情報を優先してしまい、古い情報を保持できない」ということになってきます。

これがあると、「目の前のものや出来事など、新しい情報に反応し続ける」ということになり、これが「多動(じっとしていられない)」ということにつながっていきます。

「実行機能におけるワーキングメモリの低下」ということができると思います。

ちなみに「実行機能」とは、いろいろありますが、ここでは、「行動を分析し、組み立て、優先順位を付けて行う行動」と捉えて良いと思います。

たとえば、「料理をする時に、まずあれをしてからこれをするといったような順序立て」のことですね(認知症の中核症状に「実行機能障害」というものがありますよね)。

そして、「衝動性」ですが、これは、「実行機能の自己抑制機能の低下」「報酬系機能障害」というものが関わってきます。

要は、「ずっと先にある目的に到達するまで待てずに、順序(順番)通りできない」ということですね。

「順序(順番)通りにすることを我慢できずに、行動が先走ってしまう」ということです。

ちなみに、「報酬系機能障害」でいう「報酬系」とは、満足感、達成感をつかさどる神経系のことで、この機能が低下すること(機能障害)により、報酬による満足感、達成感が十分に得られないため、「待つことを最小限にするための衝動的な行動」や注意を他のものにそらし気を紛らわせるなどの代償行為として、「多動性」や「不注意」が現れてくると考えられています。

すみません、ナンダカ難しい言葉が出てきましたね、ですが、頑張って続けますね(#^ω^)。

ADHDには、「不注意優勢型」と「多動衝動性優勢型」、また、これらの「混合型」というのがあります。

「不注意優勢型」は、女性に多く見られ、また、大人のADHDに多いといいます。

「多動衝動性優勢型」は、子どもに多く見られますが、小学校の高学年で約半数が寛解するといいます(私は、これだったのかな?(。・_・。))。

寛解」とは、治療を続けたりしながら、病気の症状がほぼ消失したように見える状態のことを言います。

このまま、治る可能性もありますが、また再発する可能性もある状態です。

それに対し、「完治」という言葉があり、これは、治療を終えても病気の症状が完全に消失した状態です。

「混合型」は、ADHDの約60%が該当するらしいです。

ADHD自体は、日本では5~7%の割合で見られ、これらの60%が、その症状を大人まで引き継ぐそうです。

また、ADHDを抱えた人は、ADHDの特性のせいか、発達が約3年遅れるという報告もあります。

そして、ADHDを抱えた人の、ADHDを抱えていない人と比べた他の障害との合併率をみると、学習障害(LD)で約9倍(46%)、素行障害(行為障害)で約13倍(27%)、不安障害で約9倍(18%)、うつで約14倍(14%)になるそうです。

これらには、神経伝達物質の不足が影響しているようです。

たとえば、ADHDを抱えた人では、「ドーパミン」や「ノルアドレナリン」 が不足していることが分かっているようです。

ドーパミン」は、楽しい時や興奮した時に分泌され、「ノルアドレナリン」は、緊張したり集中したりする時に分泌されます。

これらの分泌が不足することにより、注意力を高めたり、満足したり、感情をコントロールすることができなくなりやすいんだと思います。

次に、ADHDを抱えた人には、どんな薬が処方されるのかを少し見ていきたいと思います。

「不注意優勢型」が強く出る人には、「ストラテラ(アトモキセチン)」という薬が処方されるようです。

「衝動性」が強く、「他害傾向」のある人(子ども)には「インチュニブ(グアンファシン)」という薬が処方されるようです。

「多動衝動性」が強く出る人には、「コンサータメチルフェニデート)」という薬が処方されるようです。

これは、中枢刺激薬で食欲低下などの副作用も強めだそうです。

もともと、「メチルフェニデート」というのは、「リタリン」という名前で「ナルコレプシー」という病気に対して処方されていた薬です。

ナルコレプシー」とは、「眠ってはいけないような状況にあっても、くり返し突然眠ってしまう」というような「睡眠発作」を主とする「睡眠障害」の一種で、「睡眠麻痺」「入眠時幻覚」「情動脱力発作(カタプレキシー)」を伴います。

「睡眠麻痺」とは、いわゆる「金縛り」の状態で、入眠の前後や起床直後に、体を動かそうとしても動かせなくなる状態です(疲れている時にも起こることがあります)。

「入眠時幻覚」(目が覚めた時に起こる「出眠時幻覚」というのもあります)は、寝入る前後などに、実際には存在しない映像や音が鮮明に見えたり聞こえたりする現象です(これも疲れている時にも起こることがあります)。

この幻覚は極めて鮮明で、正常な夢とは比べものにならないくらい強烈だといいます。

「情動脱力発作(カタプレキシー)」とは、いわゆる「腰を抜かす」状態で、日中起きている時に、怒り、恐怖、喜び、笑い、驚きなどの突発的な感情が引き金になって、意識消失を伴わない突然の筋力低下を起こすことです。

「笑って力が抜けた」状態にもやや似ているといいます。

「カタプレキシー」と似た言葉に「カタレプシー」というのがありますが、「カタレプシー」とは、「受動的に取らされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態で、強硬症(強梗症)、蝋屈症とも呼ばれる緊張病(カタトニア)症候群の一つで、意欲障害に基づくもの」とされており、神経障害症状、パーキンソン病てんかん統合失調症に関連付けられるものであり、「カタプレキシー」とはまったくの別ものです。

また、これで思い出しましたが、「ジストニア」と「ジスキネジア」という似た言葉がありますが、「ジストニア」とは、「長時間続く(持続性の)不随意的な筋収縮を特徴とし、体全体や体幹、四肢、首などに異常な姿勢を強いられる現象」のことで、「ジスキネジア」とは、「自分の意思とは関係なく、体の一部が勝手に不規則で異様な動きをする現象(不随意運動の一種)」のことです。

本当にややこしいですね。

すみません、まったく関係のない話でした(¯―¯٥)。

これらから、心霊現象のようにいわれている「金縛り」も、理論的に説明がつくかもしれませんね😁。

さて、この「ナルコレプシー」という病気に処方されていた「リタリン」ですが、実は「覚醒剤」のような効果があって、麻薬のように裏社会で流通していたというような経緯があります。

そういうわけで、「リタリン」は過去にはADHDに対しても処方されていたらしいですが、現在は「ナルコレプシー」に対してだけと限定されています。

コンサータ」は、「リタリン」の効果を長時間効くように持続的に調整したものです(「コンサータ」も不適切な使用を避けるため、流通管理が徹底されています)。

話が大きくそれてしまいましたね(¯―¯٥)。

先ほど、ADHDでは、「ドーパミン」や「ノルアドレナリン」が不足するとお話ししたと思います。

ドーパミン」は、「興奮」や「快感」のホルモンです。

実は、これが不足すると「依存症」になりやすいことが分かっています。

たとえば、タバコを吸うとニコチンの作用で「ドーパミン」が分泌されます。

それが定常化してしまうと、タバコを吸わないでいると「ドーパミン」が分泌されないので「イライラ」したり「ソワソワ」したり落ち着かなくなるのです。

これは、「アルコール」や「ギャンプル」にも共通して言えることです。

「アルコール」で考えてみると、平常時の「ドーパミン」の状態が50、飲酒時の状態が100とします。

飲酒時の状態が増えると「ドーパミン」が100の状態が増えるので、平常時には「ドーパミン」の状態が50となり、その分、集中できなくなります。

「集中できない」ということは、「楽しくない」ということにつながりますので、さらに「アルコール(飲酒)」を求めるという悪循環におちいることになるのです。

そういうことで、ADHDを抱える人は「ドーパミン」が分泌されるものに反応しやすいということになり、「依存症」になりやすい、と言えると思います。

そういうことで、大人のADHDを抱える人への支援においては、「依存症」にならない支援、または「依存症」における支援が大事になってくるのかもしれませんね。

かんたんではありますが、ADHDを抱える子どもへの支援というものを考えてみますと、「不注意型」が強い子どもでは、忘れ物が多いということもありますので、ノートをルーズリーフにする(ノートを忘れないですむ)ということや学校に教科書などを置いておくことを認めてあげる、などが考えられます。

また、「衝動型」が強い子どもでは、活動への取り組みができた時などに報酬を与える場合、後からまとめて報酬を与えてようとしても待てないため、先に分割した報酬を与え、その後、活動が一区切りするたびに、残りの分割した報酬を小出しに与えるなどが考えられます。

そして、徐々に一区切りの活動の時間を伸ばしていくのです。

たとえば、「衝動型」の強い子どもは、「宿題が終わってから遊ぶ」と約束しても、特性上、宿題が終わるまで待てないので、まずは少し遊ばせてから、後は宿題が一区切りついてから少し遊んで良い、そして、宿題が終わったら最後まで遊んで良いといった感じに持っていくのです。

これで、気持ちも切り替わって集中して宿題に取り組めることが期待できますよね。

「多動型」が強い子どもでは、刺激を与えて脳を活性化すると集中力が保ちやすいということがありますので、手で何かいじりながら勉強することで効率が上がる、ということが期待できます。

また、「ノルアドレナリン」の分泌が低く、緊張感も低下して、結果、集中力も低下するので、「あと何分(何秒)!」のようにカウントダウンをしてあげると、「ノルアドレナリン」の分泌が刺激されて集中力が増し、切り替えもスムーズになって活動に取り組めるかもしれませんね(「衝動型」が強い子どものところでお話ししたように、最初や途中に報酬を小出しに与えておくと「ノルアドレナリン」の分泌も高められていることが期待できますね)。

これが自閉症スペクトラムASD)を抱えた子どもの場合には「トークンエコノミーシステム」が有効だったりします。

トークンエコノミーシステム」とは、たとえば、適切な行動に対してシールをつけてあげたり、丸印のチェックをつけてあげたりして、それが決められた数に達したら本人が望む報酬が受けられるというものです。

ちなみに、「トークン」とは、ここでいう「シール」や「丸印のチェック」のことで、本人にとって価値のある報酬(強化子)と交換できる代理物(代用貨幣)のことです。

また、適切な行動を増やすことを「強化する」といいます。

とかく、子どもへの支援は難しいなと感じます。

寄り添い方にも独特なものがあるように感じますので、まずはその特性(障害特性)への知識を身につけてから寄り添う必要があるように思えますね(¯―¯٥)。

う~ん、難しい!

 

まだいろいろとあるんですが、今回はここまでにしたいと思います。

長くなりましたが、お付き合いいただき、ありがとうございました。

次回もまたよろしくお願いします。

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今日の"せなくん”😁 猛ダッシュです⁉